千葉県匝瑳市慰霊
匝瑳市慰霊研修旅行
1.はじめに
 2023年10月6日(金)に実施した千葉県匝瑳市への慰霊研修旅行について、会長大森より報告します。当日は秋晴れに恵まれ、水戸市秋葉副市長、幕末維新水戸有志を偲ぶ会・栗原会長、県近現代史研究会・市村会長にも参加いただき、諸生・天狗争乱終焉の地、千葉県匝瑳市を5年ぶりに訪問しました。匝瑳市での行事を行うにあたっては、元匝瑳市立八日市場図書館の館長で、匝瑳市文化財審議委員・水戸藩士の史跡を顕彰する会会長の依知川雅一様、龍性院役員の大木仁様らの全面的な協力により、充実した内容にすることができました。心より感謝いたします。

2.匝瑳市の史跡について:諸生党関連の史跡を紹介します。

 

 水戸藩士の墓(脱走塚、左):松山戦争の諸生党・戦没者25名が埋葬された場所で、匝瑳市の指定文化財。3つの慰霊碑がある。右:戦死二十五人墓(明治2年建立)、中央:水戸藩志士吊魂碑(大正15年建立)、左:百年祭記念碑(昭和41年建立)。
 水戸浪士の墓(右):またの名を「斬られ様」と言う。松山戦争を落ち延びた藩士が十数名斬られた場所。林千之様らにより平成21年建立。

3.匝瑳市での慰霊の経緯

 匝瑳市での慰霊の経緯を年表にまとめました。匝瑳市の皆様は、松山戦争(諸生・天狗最後の戦い)直後から、戦没者を手厚く供養して来てくださいました。感謝しかありません。

4.市村先生講和:車中での講和(要旨)を紹介します。

①眞木家の歴史(マイク眞木さん、初代水戸大使、のファミリーヒストリー)

 眞木家は越前朝倉の一族。織田信長に滅ぼされ浪人となる。景猶の時、初め紀州藩頼宣公につかえ、次に水戸藩頼房公の希望で水戸藩に移り3000石を賜り家老となった。景近に世継ぎがなく絶家となるが、弟家が眞木家を継ぎ、景嗣の時100石を賜り普請奉行、郡奉行を歴任。しかし天狗党の乱(元治元年1864年)が災いとなる。宍戸藩主に同行して水戸に向かったが意図せず幕府軍と対峙してしまう。幕府に歯向かうつもりはないため、那珂湊で降伏したが古賀藩預かりとなり、切腹を命じられてしまった。景嗣には鉄之助という子供がおり、その子孫がマイク眞木さん。また眞木家の屋敷は今京成百貨店の駐車場になっている場所にあったが、駐車場を建設した平成2年、百貨店は屋敷跡にあった眞木神社を、駐車場の角地に移設。毎年初売りの日に神主を招いて祈祷を行っているとのこと。

  

②塚原萬治郎の話
 塚原萬治郎は、匝瑳市では松山戦争を生き延びた諸生党の藩士とされており、戦闘で傷づいたが地元の人にかくまわれ、水戸から妻子を呼んで64年の生涯を終えたと伝えられていた。ところが市村先生が調べたところ、塚原萬治郎は市川勢にはおらず天狗党と判明。天狗党の乱に加わり敦賀で降伏したが、24歳と若かったため武田金次郎らとともに死罪を免れ、市川勢の追討に加わったとわかった。それではなぜ、諸生党と偽ったかということだが、天狗党は千葉でさんざん悪さをしたため、地元の人たちから嫌われていた。そのため生き延びるには、諸生党と偽るしかなかったのではないか、ということでした。

5.水戸藩国事殉難者慰霊法要
 水戸藩士の墓(脱走塚)にて、松山戦争155回忌となる、慰霊法要を実施しました。

1)読経  西光寺住職 菱木 智仁 
2)追悼の辞  水戸殉難者恩光碑保存会会長 大森 信明
3)式辞 水戸市長 高橋  靖(代行副市長 秋葉 宗志)
  匝瑳市長 宮内 康幸
4)焼香 水戸殉難者恩光碑保存会会長 大森 信明
  水戸市副市長 秋葉 宗志
  匝瑳市長 宮内 康幸
  匝瑳市市議会議長 山﨑  等
  匝瑳市教育委員会教育長 二村 好美
  幕末維新水戸有志を偲ぶ会会長 栗原 邦俊
  茨城県近現代史研究会会長 市村 眞一
  龍生院総代 関  春男
  水戸藩士の史跡を顕彰する会代表    依知川雅一
  恩光碑保存会、偲ぶ会関係者  
  中台地区、水戸藩士の史跡を顕彰する会関係者 
  水戸市、匝瑳市職員  

 「追悼の辞」
 本日ここに、幕末の争乱終結から155年目の水戸藩国事殉難者慰霊法要を行うにあたり、ご来賓の皆様ご臨席のもと、参列者の皆様と共に、当地戦没者の皆様に謹んで哀悼の意を表します。
 水戸藩諸生党の藩士の皆様が、故郷を離れ、志半ばにして戦没されたことは、痛恨の極みであります。諸生党藩士の皆様は、国を思い、藩を思い、国事のために奔走されました。不幸にして、明治維新後に賊の扱いをされ、長い間正当な扱いをされませんでしたが、その志は、勝者の側と比べ何の引け目もありません。私たち水戸殉難者恩光碑保存会は、諸生党の皆様が正当に評価されるよう、歴史を学び、後世に伝える活動を行ってきました。道半ばではありますが、徐々に見直されてきております。平成21年には、水戸市市議会にて、水戸市教育委員会が平等に扱うと答弁しました。本日は、水戸市副市長秋葉様、水戸市教育委員会の皆様が戦没者の顕彰に訪れています。私共はこれからも水戸の歴史を偏見なく後世に伝える活動を行って参ります。
 また、地元匝瑳市の皆様は、松山戦争直後から、戦没者を厚く供養して来てくださいました。明治2年には戦死二十五人の墓、明治21年に21回忌法要、大正15年に水戸藩志士弔魂碑建立、昭和35年八日市場市文化財指定、昭和41年百年祭挙行。平成21年には「水戸藩士の史跡を顕彰する会」の皆様が、きられ様の場所を特定し、水戸浪士の墓を建立してくださいました。本日は、匝瑳市市長宮内様を始めとする多くの地元の皆様が参列してくださっています。私共は、匝瑳市の皆様に厚く御礼を申し上げると共に、末永く交流を行い、共に水戸藩士の顕彰を行って参ります。
                                            令和5年10月6日 水戸殉難者恩光碑保存会 会長 大森信明

6.交流会
 慰霊法要の後、匝瑳市生涯学習センターに移動し、昼食を兼ねた交流会を行いました。約50名が参加。恩光保存会会長大森が挨拶の後、匝瑳市市長宮内様、同市議会議長山﨑様、水戸市副市長秋葉様、幕末維新水戸有志を偲ぶ会会長栗原様、茨城県近現代史研究会会長市村様、水戸藩士の史跡を顕彰する会会長依知川様からご挨拶をいただきました。
 その後、戦没者の供養に貢献してくださった4団体、「龍性院様」、「中台区民様」、「水戸藩士の史跡を顕彰する会様」、「円長寺様」に感謝状を贈り感謝の気持ちを伝えると共に、記念品として、裂公ゆかりの「農人形」を贈りました。

7.水戸浪士の墓参拝
 交流会の後、生涯学習センター近くの「水戸浪士の墓」に移動。円長寺ご住職、柴田敦様に読経していただき、参拝しました。

8.飯高寺見学
 今回の研修旅行の最後に、飯高寺を見学しました。飯高寺は元「飯高檀林」という日蓮宗の学問所で、天正8年(1580年)から明治7年までの約300年の間に、数多くの僧侶を輩出しました。立正大学の前身でもあります。「総門」「講堂」「鼓楼」「鐘楼」の4棟が国の重要文化財に指定されており、広大な敷地の中、樹齢約300杉の林の中に立っておりました。徳川光圀公も元禄11年(1698年)に訪れており、記念の桜が黄門桜として残っているそうです。駐車場から境内までの長い坂が大変でしたが、皆さん無事にたどり着き、歴史に思いを馳せる時間を過ごしました。

8.最後に
 5年振りに匝瑳市を訪問し、松山戦争155年忌の慰霊法要を行い、匝瑳市の関係者の皆様と交流しました。今回の訪問で、改めて匝瑳市の皆様が諸生党の戦没者を手厚く供養してくださっていることを認識し、このことを水戸の人たちにも伝えていかなければならないと、気持ちを新たにした旅行でした。

会長 大森信明
水戸藩志士弔魂碑の殉難者姓名松山戦争155回忌慰霊法要追悼の辞 大森会長式辞 水戸市長代行 秋葉副市長式辞 宮内匝瑳市長参列者焼香記念撮影交流会感謝状・記念品贈呈水戸浪士の墓参拝飯高寺見学飯高寺見学
<写真をクリックすると拡大します>(2023.10撮影)