朝比奈弥太郎(泰尚)
あさひな やたろう (やすなお)
朝比奈家墓所泰尚 泰彙墓泰尚 泰彙墓泰尚 泰彙墓七郎衛門墓所
<写真をクリックすると拡大します>(2020.5撮影)
 朝比奈弥太郎
 幕末に起こった水戸藩抗争の発端は、九代藩主に斉昭擁立を願った一派と、反対した保守門閥派の対立で始まる。以後多くの政策でも抗争を続け、互いに憎しみつつ、領民を始め幕府や諸藩、朝廷までまきこんで混乱を増大していった。頂点となった元治元年の「天狗・諸生の乱」は血で血を洗う争いとなり、明治維新以後も大きな影響を残した。最後の勝利者は天狗側であったため、反対派の立場はずいぶんと微妙に取り扱われた。その中でも重鎮とされ、藩の重職にあった市川三左衛門、結城寅寿、佐藤図書と並んで朝比奈弥太郎は「巨魁」とされてきた。
 弥太郎は代だいの襲名である。この混乱の時には泰然(たいぜん)・泰尚父子が関係したが、多くの記録は「朝比奈弥太郎」で記載され、父子が混同されている場合が多い。
 泰尚、幼名は友郎。泰然の次男、靫負(ゆげい)、張飛(ちょうひ)とも称した。弘化4年(1847)2月小姓に召し出され、嘉永6年(1853)2月寄合指引となる。兄泰名は病身で嘉永2年に没していたので、父の死後6年5月家督相続、1300石、12月馬廻頭、安政元年(1854)6月書院番頭、3年5月大番頭。桜田事件の直後の万延元年4月大寄合頭、文久3年(1862)正月城代に就任する。斉昭から厳しく批判されたような行為はなかった。
 「巨魁」とされる下地は、元治元年(1864)3月藩政改革派から尊王攘夷派へと変化した中の、過激派の藤田小四郎らが「天狗党」の名で筑波山へ挙兵したことに始まる。幕府はこの行動を、世を乱す賊徒の集団と判断した。各方面へ命じたとおり、水戸藩へもその取り締まりを命じてきた。水戸藩にあった重臣たちはこの幕命と、藩内の反尊王攘夷派の要請を受けて江戸へ上る。弥太郎は大将格であった。同行の集団に多くの弘道館の学生(諸生)たちが参加したので、やがて天狗派に対して彼等を「諸生」と総称するようになっていった。同年6月江戸屋敷において、大寄合頭上座御用達(いわゆる執政)を拝命する。次いで筑波追討を決して行動を始めた。筑波挙兵に参加しなかった尊攘派は、この弥太郎たちに対抗して大挙江戸に上り、弥太郎たちをはじめ新たに任じられた役人たちを罷免する報復人事を行い、後「天狗」と総称され筑波の天狗とも行動をともにする。
 7月1日に罷免された弥太郎たちは、一時駒込屋敷で謹慎するが、やがて江戸を離れる。この時幕府軍に従って、天狗追討で出兵していた市川三左衛門たちも、下妻合戦で筑波勢に敗れ、江戸へ帰る途中にあった。両者は杉戸駅(埼玉県)で出会い水戸への帰国を決め、23日水戸城に入り貞芳院を頼って主導権を握る。8月弥太郎たちは、ふたたび家老や執政の職に任じられる。以後水戸藩庁からの指令は、弥太郎たちが「諸生」の名で指令を出し、幕府・諸藩連合軍とともに天狗勢に対抗した。領内が二分されて争ったのであるから、影響は関係者にとって強まるばかりであった。この時弥太郎の嫡男(養子・兄の遺児)泰彙(やすい)は、ともに闘った力強い部下でもあった。合戦の最中にも、たびたび諸生派有利の人事発令がなされた。10月天狗勢が敗れると、合戦直後のためか過激に天狗を処分した。この時の恨みが天狗側に根強く残り、明治維新を迎えるまで水戸藩政は諸生の勢力が中心で、天狗の反感を増長した。
 明治政府は天狗側に水戸藩政を委任した。慶応4年(1868)5月水戸にあった諸生派の主力は、会津・越後方面で新政府軍と戦った。水戸から追討軍も派遣された。弥太郎たちにとって戦況は不利、ふたたび水戸領内へもどり10月1日に弘道館辺で天狗派との合戦で敗れて敗走し、6日に八日市場松山(千葉県匝瑳市)において泰彙とともに戦死した。
(宮澤正純)
「水戸の先達」水戸市教育委員会 平成12年3月より部分抜粋
 水戸家譜代として生き最後は奸人
 ★朝比奈氏について

 朝比奈泰尚の朝比奈家は、初め、駿河(静岡県中央部)の今川氏、次いで小田原の北条氏に仕えた後、徳川家康に引き立てられており、御三家水戸藩には成立の時から仕えた譜代の臣である。 泰尚は、執政(家老)として門閥派政権の中枢にあった。市川らとともに水戸を脱し、その後は市川勢として行動する。八日市場の戦い(千葉県)で戦死、41歳であった。その時、養子の泰彙も共に戦死している。
 水戸藩には、この泰尚の朝比奈家(弥太郎系)のほかに、七郎衛門系の朝比奈家もあった。こちらも初めは今川氏につかえており、両系とも同じ家から分かれたとみられる。七郎衛門系も、別ルートだが、当初から水戸藩に仕え、600石を与えられて奉行や番頭を務めている。
 水戸市米沢町に七郎衛門系朝比奈家の子孫・朝比奈光一さんが住んでいる。「うちも諸生派、いわゆる、門閥派とされていました」という光一さんは、さらに次のように話す。「純粋に幕府を守ろう、行動は幕府の命に従う、ということで、弥太郎系も七郎衛門系も、やってきたと思います。しかし、尊攘激派の天狗の連中とは相容れず、悲惨な結果となった。七郎衛門系が幕末を乗り切って明治の世を迎え、現存しているのは、幕末の当主が江戸詰であり、水戸で天狗派と直接かかわることがなかったからです」。
『常陽芸文』2006年12月号 より抜粋引用
  
戦死場所 千葉県匝瑳市中台(松山戦争にて 朝比奈弥太郎泰尚・靱負泰彙)
  戦死年月日 明治元年(1868)10月6日
墓地 祇園寺
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