筧助太夫(政布)
かけい すけだゆう (まさのぶ)
(2022.5撮影)
 筧家について
 筧家は、戦国時代の末期には三河国で代々武勲立てた武士として知られていましたが、徳川家康が天下を治め、江戸幕府を開くと、筧正長はその家臣となり、さらに軍功を重ねました。
 家康は、正長が猟師が山野に入って常に禽獣を打ち落とすのに似た勇士だとして「猟之介」という名を与えたほどで、筧家では代々その名を大切にしていました。又、本名(忌み名)には、「正」「政」の字を付けて、家系の正しさを誇りにしていました。
 正長のあとの計正は、家康の命で父の正長と共に、初代の水戸藩主となる徳川頼房(家康の十一男・末子)に使えます。一年間に千石の扶持をもらい、大番頭(戦時、平時に城内の警備の中心組織で、藩主のお供にもあたる大番頭の長官)となって、早くも藩の武士のいわばかなり上級の地位につきます。これ以後も大番頭や老中(藩主に直属しして政治を担当した最高責任者)など最高の役職についています。
 計正の後が政武で、やはり猟之介・助太夫の通称をもちいます。政武も二代藩主徳川光圀(水戸黄門)の時代に大番頭になります。次の三代は綱条ですが、綱条が藩主になる前の時、政武は綱条のいわば家庭教師(傅(ふ)といいます)もしていました。
 光圀は、政武の三の丸の家に出掛けてご馳走になったこともありますし、政武は五代将軍・綱吉が江戸小石川邸(水戸藩の屋敷)に来た時には、将軍におめにかかり、頂戴物(白銀と季節の服)をしたこともありました。
 次の政興は四十三歳で亡くなりますが、その妻は谷小左衛門重箭の娘でした。重箭は谷重代の子で、重代(重則の子)の妹の久子は、黄門光圀の妻ですから、祖父の妹が光圀の妻ということで、筧家は光圀とかなり近い親戚に当たるわけですね。これには驚きました。
 重箭の娘の産んだ子の正登も代々のように猟之介を名乗り、千百石を受け、大番頭になります。その前後の筧家は、代々千百石の扶持を受ける重臣です。
 次の政任も猟之介・助太夫を名乗りますが、老中からさらに大老になります。老中が行政官としては藩中のトップですが、老中の中で特に功績のあったものに、名誉職として「大老」を与えます。この政任は、下総守(形式ですが、今の千葉県知事)の称号も受けます。よほどの功績があったものとみえます。
 次の政施、その次の政寧も代々のような役職につきます。次の政徳(猟之介、のち助太夫)は、御前小姓(藩主の身の回りの世話や警護をする)をはじめ、新番頭(警備にあたる新番の長)、大番頭、大寄合頭(無役、無番の上級の武士を寄合組というところに入れますが、その統率者)などを歴任して、安政四年(1857)十二月に家老になりました。隠居し、竹林軒と号したといいますから、三の丸の屋敷の中に、竹林があったのでしょう。次の政布(まさのぶ)は、幕末の水戸藩の党争(天狗・諸生の乱)の時、那珂湊の戦いで負傷し、どうもこれがもとで亡くなったようです(※注釈)。
 こうしてみると筧家は、水戸藩の最上級の武士の一人として藩成立の当初から幕末まで、家を代々継承して、重職を果たしてきた名家だったことがわかります。
瀬谷義彦、水府系纂抜粋
 ※筧政布について
 筧政布は、筧政徳の次男として生まれ、長男が早逝したことから摘子となります。安政三年、家督を継ぎ千百石を賜り、小姓、大番頭、大寄合頭を歴任しました(水府系纂より)。瀬谷先生のコメントには、那珂湊の戦闘で負傷し亡くなったとありますが、政布は天狗党の乱後も生き、慶応四年(1868)三月に市川勢が水戸を脱出した際は市川勢の幹部として活躍します。越後、会津、弘道館の戦いを経て、明治元年(1868)十月六日の松山戦争で戦死しました。匝瑳市・脱走塚の水戸藩士弔魂碑にその名が刻まれております。
※慶応4年9月8日より明治に改元
会長 大森信明
  
戦死場所 千葉県匝瑳市中台(松山戦争にて)
  戦死年月日 明治元年(1868)10月6日
墓地 善重寺
  関連資料 『【特別調査報告】水戸善重寺史料』「同朋大学佛教文化研究所紀要」第35号 2016年3月