大森金六郎(信敬)
おおもり きんろくろう(のぶたか)
良福寺金六郎墓金六郎墓建立者建立年月日酒門墓所水戸金六郎墓墓碑
<写真をクリックすると拡大します>(2015.9/2020.5撮影)
 大森金六郎信敬は、大森信任(弥三左衛門)の実弟。 兄弟には、信任、信敬(金六郎)、忠恕(金八郎)、道家がおり、道家は結城寅寿の名跡を継いで結城道家となっている。
 慶応4年(1868)3月10日夜、忠恕を除く兄弟3人は水戸を脱出し、会津に向かった。脱出した3人のうち道家は、5月末の長岡(新潟県長岡市)近くの戦闘で深手を負い、戦没した。信任は市川らと北越戦争を経て会津に入るが9月、陣没。 4兄弟のうち、信敬が最後まで残ったが、明治元年(1868年9月8日に明治と改元)10月5日、八日市場の戦いの前日に、現在の千葉県銚子市松岸町付近で、高崎藩兵に銃撃されて死亡。当時、この地方は高崎藩の飛び地領だった。
 「一行に降伏の動きがあって、信敬は弁が立つから、と高崎藩の役人との交渉役を任され、行く途中に後ろから撃たれた、と聞いています」水戸市城東に住む、信敬のひまごの大森信英さんが、こう話す。
 当時、信敬は36,7歳。3歳の娘がおり、この娘が成人して婿を迎え、家を存続。明治22年(1889年)の、大日本帝国憲法発布にともなう恩赦で信敬の復権は成ったが、「何しろ、諸生一味の子孫ということで、第二次世界大戦が終わるころまでは、ひっそりと生活せざるを得ませんでした。」という。
『常陽芸文』2006年12月号 より抜粋引用
  
戦死場所 千葉県銚子市松岸
  戦死年月日 明治元年(1868)10月5日
墓地 良福寺(千葉県銚子市松岸町2-178-1) 町内年寄により建立
酒門共有墓地 信邦(婿養子)により明治42年建立
  墓碑銘 良福寺
 因明院受炮發性信士 町内年寄中 慶應四年十月五日
酒門共有墓地
 故金六郎大森君墓
 金六郎君大森彌三左衛門之弟也召出為馬
 廻役分家明治元年十月五日戰死于下總松
 岸云四十二年十月五日建  大森信邦識
  関連サイト・資料 水戸 酒門共有墓地 Ⅲ 大森家墓 史跡訪問の日々 2013.3.1)
    銚子 Ⅱ(良福寺) 大森金六郎墓 (史跡訪問の日々 2011.6.1)
    ・大森金六郎について (大森信英 当会元会長) (PDF)
    良福寺過去帳(大森金六郎墓所) (PDF)
    ・「風説留」 その1 その2 その3 その4 その5 その6
  「風説留」  は大森金六郎が江戸詰であった万延元年頃に、江戸市中で聞かれた風説を書き留めたものです。「桜田門外の変」に関する風説も淡々と書き留めており、水戸藩士が意外と冷静に事件を眺めている興味深い資料と言えるでしょう。