内藤耻叟
(ないとう ちそう)
内藤耻叟(ちそう):諸生党建言書の起草者、明治維新を生き延び東大教授となる
 文政10年(1827)11月、水戸藩士 美濃部又三郎茂政の次男として生まれ、20歳の時に内藤正輝の養子となる。元々会沢正志斎、藤田東湖に学んだ尊攘派であったが、戊午の密勅の返納を武力で阻止しようとする激派とは対立。筑波勢が決起すると、諸生党建言書を起草し、願入寺で諸生党を決起した。これが市川三左衛門、朝比奈弥太郎、佐藤図書ら門閥派の賛同を得、江戸に上がって天狗討伐を訴えることになる。筑波勢との闘いで内藤は、水戸藩北部の民兵を集めて田中原蔵隊を撃破するなどの武功を挙げた。その後は門閥派とは距離を置き、市川勢脱出の際も市川勢には加わらなかったが、身辺に危険を感じ、東北地方へ脱出。湯沢正直と名前を変えて山形県職員となり潜伏した。明治6年戊辰脱走の罪が免罪となる。明治17年(1884)東京大学講師、明治19年(1886)より帝国大学文科大学教授。著作には「徳川十五代史」、「安政記事」などがある。明治36年(1903)中風のため東京小石川で死去。77歳。
(大森信明)
 内藤 耻叟
 島田三郎が「開国始末」(明治二十一年刊)を著し、大老井伊直弼の功績をたたえ、水戸藩および徳川斉昭の業績を消極的な評価に終始すると、耻叟は実証主義、考証主義の立場に立って「安政紀事」を著し、「開国始末」の語謬を一つひとつ訂正し、水戸藩の立場を詳述した。
 耻叟は文政十年(一八二七)十一月、水戸藩士美濃部又三郎茂政の次男として水戸に生まれた。幼名は幾之助、彦十郎、通称弥太夫、諱は正直、字は仲養、大道、王道といい、耻叟、碧海はその号である。
 幼くして会沢正志斎に学び、藤田東湖の塾にも通ったが、弘道館が開設されると、ここで学んだ。
 弘化三年(一八四六)二〇歳の時に、内藤正樹の養子となった。内藤家は代々軍事掛を勤めていたので、その跡を継ぎ小十人組先手物頭格軍事係となった。
 安政二年(一八五五)軍用掛に抜擢されたが、翌年門閥派の結城寅寿が死罪となると、連座して処罰された。
 安政五年許されて使番となり、斉昭の兵制改革にともない、大沼村(日立市)に砲台が建設されると、その守備を命ぜられる。
 この年水戸藩に戊午の密勅が届けられる。攘夷の準備と密勅の雄藩への廻達が記されていた。当時水戸藩は、井伊直弼の無勅許条約調印を批判したために、斉昭、慶篤、一橋慶喜ともに謹慎を命ぜられ、藩政は井伊家と絶縁となった高松藩松平頼胤らが、後見職として門閥派に指示をあたえた。
 幕府は門閥派を通じて密勅の返納をせまる。尊攘派は返納の絶対反対を唱える激派と、朝廷への返納やむなしとする鎮派に対立して、藩政は混乱に混乱を重ねることになる。
 耻叟は斉昭が密勅を返納しようとしているのに、家臣の者がそれに反対し、返納を実力で阻止する行動は許されないと、檄派の態度を批判した。いうならば鎮派の態度を示したのである。
 翌六年に藩状が変化すると、耻叟は慎、隠居を命ぜられた。家督を誠太郎に譲り、耻叟と号して政治から離れ、専ら読書と著作で生涯を終ろうと考えていた。謹慎はその後七年におよんだ。
 元治元年(一八六四)いわゆる天狗党の乱が起こると、太田および水戸藩北部の民兵を集めて、田中原蔵隊と森山・助川(ともに日立市)に戦い、これを追討した。
 同年九月罪を許されて御用調役となり、幕府監察戸田五助らと謀り、那珂湊に武田耕雲斎を攻撃した。
 慶応元年(一八六五)軍用掛となり、弘道館教授を兼務したが、翌二年江戸に出て水戸藩の内政、人事について、幕府監察堀錠之助らと諮るところがあった。とくに家老鈴木岩見守を排斥しようとしたことが発覚、水戸に護送されて幽閉された。
 明治元年許されて一月ほど復職するが、四度目の謹慎となる。身辺に危険を感じた耻叟は、佐川純一と変名して東北各地を転々とした。
 明治三年十二月湯沢正直と称して山形県で史生となり、戸籍係、郵便設置取調御用、学校懸、地券懸など歴任した。茨城裁判所が戊辰脱走の罪を寛典に処し、免罪としたのは明治六年五月のことであり、湯沢正直を本名の内藤弥太夫に改めたのは、明治十年三月のことである。 明治七年に大蔵省に出仕、おもに統計の仕事に従う。同十年東京府に出仕し、翌十一年には小石川区長となった。
 同十四年転じて群馬県立中学校校長となり、十七年二月東京大学文学部講師となる。十九年三月には東京大学文科大学教授となった。文科大学教授は明治二十四年まで勤務するが、この間尋常師範学校・尋常中学校・高等女学院教員学力試験委員、陸軍教授、幼年学校附など兼務した。一時「古事類苑」の編集にも関与している。三十二年宮内庁嘱託となる。
 彼の著作には「徳川十五代史」、「安政紀事」、「水戸小史」、「江戸文学志略」、「国体発揮」、「徳川氏施政大意」、「徳川氏貨幣制度」、「碧海漫鈔」、「徳川文教志」、「勅語解釈」、「日本兵士」、「明道論」、「古道指要」、「徳川実紀校訂標書」などがある。
 明治になって勅許返納およびいわゆる天狗党の挙兵についての歴史認識については、多くの議論が展開され、特に川瀬教文らとは激しい応酬があった。川瀬教文が「波山始末」を刊行すると、序文を寄せて武田耕雲斎、山国兵部の行動を評価するにいたった。
 冒頭の「安政紀事」には付録に史料紹介があり、その中に会沢正志斎の「開国論」がはじめて掲載され、正志斎の思想の一面を知る好資料となっている。
 明治三十五年七七歳で没した。上野谷中墓地に葬られる。 
(久野勝弥)
「水戸の先達」水戸市教育委員会 平成12年3月より部分抜粋
 
内藤耻叟 墓所 谷中霊園(やなかれいえん) 東京都台東区谷中 7-5-24
  関連資料・サイト 「諸生党建言」 内藤弥太夫(耻叟) (PDF) 「諸生党建言(書き下し)」(PDF)
  フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
・瀬谷義彦「幕末の宣伝戦 -水戸の天狗党と諸生派-」 『茨城県研究』第88号 茨城県立歴史館 2004/2 (PDF)
    内藤耻叟の墓 幕末維新 史跡観光 2006
内藤耻叟 谷中・桜木・上野公園路地裏徹底ツアー
    日暮里 ⅩⅣ(谷中霊園) (史跡訪問の日々 2010.11.14)
    「市川勢の軌跡 15」 市村眞一(当会顧問)「いはらき」新聞2007年連載記事 (PDF)
    ・石井裕「明治を生きた水戸藩士たち」『茨城県近現代史研究』第4号 茨城県近現代史研究会 2020 (PDF)
    ※現在谷中霊園の内藤耻叟墓は無縁墓として撤去されたようです。