大森弥三左衛門(信任)
おおもり やそうざえもん (のぶとう)
(2020.5撮影)
 水戸家譜代として生き最後は奸人
 ★大森氏について

 元治元年の動乱後、水戸藩ではしばらく門閥派政権が続くが、門閥派の中心人物を「奸人(かんじん)」と呼び、藩政からの追放を命じた藩主あての勅書が下ったことで、門閥派の多くは慶応4年(1868)3月には水戸を脱出し、その後は藩の追討軍に追われる境遇となる。その時、門閥派の鈴木重棟(石見守)、市川弘美(三左衛門)、朝比奈弥泰尚(弥太郎)、佐藤信近(図書)、大森信任(弥三左衛門)の5人は、とくに、「五奸」とされ、追討の対象になった。
 その中で、大森信任の先祖は、徳川頼房に始まる御三家水戸藩の前、徳川家康の五男で甲斐武田家の名跡を継いだ武田信吉が病没までの短期間、水戸城主であった時に来て、その後も御三家水戸藩に仕えたという。
 信任には、信敬(金六郎)、忠恕(金八郎)、道家という弟たちがおり、道家は結城寅寿の名跡を継いで結城道家となるなど、兄弟そろって寅寿との関係が深い。
 安政3年(1856)に寅寿が処刑された時、信任と忠恕はその党類として処罰されたが、元治元年の動乱後は門閥派政権の中心メンバーだった。
 慶応4年(1868)3月10日夜、忠恕を除く兄弟3人は水戸を脱出し、会津に向かった。忠恕は同姓大森家に養子入りし、そこの家格によって要職に就いた。家庭内の事情ゆえか水戸に残った忠恕だが、3月17日に暗殺される。脱出した3人のうち道家は、5月末の長岡(新潟県長岡市)近くの戦闘で深手を負い、戦没した。信任は市川らと北越戦争を経て会津に入るが9月、陣没。
 4兄弟のうち、信敬が最後まで残ったが、明治元年(1868年9月8日に明治と改元)10月5日、八日市場の戦いの前日に、現在の千葉県銚子市松岸町付近で、高崎藩兵に銃撃されて死亡。当時、この地方は高崎藩の飛び地領だった。
 「一行に降伏の動きがあって、信敬は弁が立つから、と高崎藩の役人との交渉役を任され、行く途中に後ろから撃たれた、と聞いています」水戸市城東に住む、信敬のひまごの大森信英さんが、こう話す。
 当時、信敬は36,7歳。3歳の娘がおり、この娘が成人して婿を迎え、家を存続。明治22年(1889年)の、大日本帝国憲法発布にともなう恩赦で信敬の復権は成ったが、「何しろ、諸生一味の子孫ということで、第二次世界大戦が終わるころまでは、ひっそりと生活せざるを得ませんでした。」という。
常陽芸文・「2006年12月号」より抜粋引用
 水戸「諸生党」会津落城に奮戦
 藩主をはじめ全軍が出撃して、わずか8、9名の老兵と婦女子が留守を守る本城に、どこを通りぬけたか、板垣退助が率いる土佐藩の一隊が、年貢町方面から南門に向かって殺到してきた。この時である。後に、新島襄の夫人となる山本八重らは、男装して銃をとり防戦した。
 城の石垣が高くて二の丸、本丸に入り込むのは困難と見た板垣勢は、土塁の所から、攻めこもうと濠伝いに移動を始めた。其の時、諸生派・市川勢の一隊が駈けつけてきて交戦となった。やがて、西郷頼母に率いられて冬坂(東山温泉付近)に出撃していた朝比奈、大森の水戸勢も、急を聞いて駈けつけ、あわや、落城かと思われた危機を救ったのである。会津の開城は9月22日であったが、それより、ちょうど一カ月前のできごとであった。(中略)
 9月2日、水戸勢の隊長 大森弥三左衛門(家老)が戦死する。その首を従卒らが水戸に持ち帰り、水戸の常照寺に仮埋葬した。
前田恒春(郷土史家) 手記「諸生党の軌跡を追う」より
  
戦死場所 会津
  戦死年月日 慶応4年(1868)9月2日
墓地 酒門共有墓地
関連サイト 大森金六郎のページへ