佐藤図書信近
さとう ずしょ (のぶちか)
 (2012.10撮影)
 新潟県長岡市の旧寺泊町中心部、小高い山の中腹に建つ日蓮宗の法福寺。ここの境内墓地に、門閥派政権の主要メンバーだった佐藤図書(信近)の墓がある。佐藤は慶応四年(1868)5月4日、病のためとどまって当地で没した。44歳だった。
 佐藤については、寺泊で病没したということは知られていたが、墓の所在地など詳しいことは、三十年ほど前まではわからなかった。研究者が法福寺過去帳に佐藤の俗名を見つけたことで、墓地の奥にあった墓の存在がわかる。といっても、仮埋葬されたところに、目印として数個の石が置かれただけの墓である。
 佐藤は執政(家老)を務め、その家は初代藩主・徳川頼房の時代から水戸藩に仕えてきた譜代の名門だった。子供の父に同行し、後に八日市場の戦いで、長男・信好とその弟・ 留男が戦死する。
法福寺の境内墓地からは弥彦山や佐渡島がよく見える。ただし佐藤の墓は、そこからはずれ、裏山の頂上近くに、ひっそり隠れるようにしてある。
 「一時は家老として政権中枢にあった人です。水戸近郊の藩領を歩き、農民の表彰などもしています。それだけにひとしお哀れさを感じます」茨城地方史研究会会長の佐久間好雄さんは、こう話す。
常陽芸文・「2006年12月号」より抜粋引用
 
 5月4日、水戸勢にあった家老の佐藤図書信近が、病気のため戦線を離脱し、寺泊まで後退してきた。相当の重病で、菅沼平助という人の家の軒下に倒れこんだ。同家に収容されて手厚い看護をうけたが、それも空しく、ここで息を引きとった。菅沼家では菩提所法福寺の同家の墓域に遺体を埋葬した。この寺は、むかし日蓮が佐渡に流される折に宿泊したことで知られる名刹である。
 この年・慶応4年は8月で明治となるが、元年10月25日、すでに会津藩は開城し、奥羽もほぼ鎮静した後、水戸藩の役人梶又左衛門の代人榊原彦之進という侍ほかが寺泊に現れた。朝敵である罪人の死骸を許可なく埋葬したことは不埒であるとして、住職や町役人の首を刎ねると詰め寄った。びっくりした壇信徒をはじめ、町年寄らの嘆願によって住職の打ち首は免れたが、翌二十六日の夜、榊原らは密かに図書の遺体を掘り返し、首を刎ねて持ち帰った。胴の方は元通りに埋め戻されていたので、寺ではこのことに全く気付かず、永い間知られなかったが、後年、寺泊町の町史編纂に際してこの資料が発見され、地元の新聞が報じて明らかになった。結局、水戸からの侍たちが住職らの首を刎ねると言い出したのは、密かに首を持ち去るための威嚇であったのかも知れない。榊原らによって水戸に持ち去られた首は、市内柵町の高札場に三日間晒された。
前田恒春(郷土史家) 手記「諸生党の軌跡を追う」より
 
佐藤信近(図書) 墓所 法福寺 新潟県長岡市寺泊二ノ関2720
  関連資料・サイト 佐藤図書の墓説明 日蓮宗寺泊山法福寺(じはくざんほうふくじ)新潟県長岡市寺泊