鈴木重棟(石見守)
(すずき しげむね -いわみのかみ-)
薬王院本堂薬王院本堂鈴木石見家墓所重棟墓銛太郎 甚次郎墓重矩墓
<写真をクリックすると拡大します>(2020.5撮影)
 ★水戸藩家老鈴木石見守重棟について
 子孫は鈴木重一氏(水戸市在住) (鈴木家とは・・・・)

 水戸鈴木石見守家が山吉田(愛知県南設楽郡蓬莱町下吉田)鈴木家より出て水戸に移ったのは元和4年(1618)、水戸藩の重臣。八代重矩は文政2年(1819)に家老となり、同7年には26歳の若さで定江戸執政を命じられた。その子重棟は安政6年家督を継ぎ4500石を賜り大寄合頭となる。翌年万延元年(1860)3月、家老を命じられ城代となる。いわゆる諸生派。慶応4年(1868)2月、鈴木家より分家した執政鈴木縫殿らが朝廷の勅書を奉じて江戸に下り、諸生派を罰するに及び、重棟、市川三左衛門らは藩を脱した。市川は会津に向かったが、重棟は江戸に息子らと潜伏中捕まり、斬罪の上さらし首にされた。同年4月23日のことであった。重矩も捕まり、同年2月獄中で病没。
 水戸藩内を天狗、諸生の二派に分けて展開された血みどろの幕末抗争は、幕府の手で行われた天狗党の大量処刑によって幕をおろしたかにみえた。幕府側の諸生派は天狗党関係者に弾圧を加えた。しかしそのわずか後に幕府は倒れ、今度は生き残った天狗党によりすさまじい「諸生狩り」が行われた。「勝てば官軍、負ければ賊軍」のたとえの通り、明治以降、しばらくの間、社会が落ち着きを取り戻した後も、諸生派は肩身の狭い思いを余儀なくされた。
 いわゆる、戊辰の難で、当時家老職にあった諸生派の鈴木石見守重棟は、その子銛太郎「8歳」、甚次郎「3歳」とともに藩を脱して、上野芝白銀台町の忍願寺に潜伏中を慶応4年(1868)4月捕まり、水戸に送られ3人とも斬首の上さらし首にされた。
 重棟の父・重矩も諸生派の領袖として捕まり、水戸赤沼の獄舎に投じられ、同2年正月、獄中で病没した。また、重棟の叔父・重為 -慶応2年3月(1868)病死- の長男で、同藩大目付職にあった謙之介は、重棟逃亡ほう助の罪を科せられ、明治元年切腹して果てた。鈴木一族で女を除き難を逃れたのは、重為の末子の金六郎のみであった。
 生活苦を乗り越え再興。当時16歳の金六郎は水戸近郊を転々と逃げ回り、明治16年(1883)になってやっと絶家の再興をなした。しかし諸生派というだけで勤めに出ることもできず、生活は苦しかった。
 金六郎に2女があり、長女・こうが鴨志田家の二男為次郎を婿に迎え家を継ぐ。為次郎は水戸刑務所の刑務官だったが、大正8年ごろ転職し自転車店を始めた。現在は為次郎の長男の重一さんが家督相続し、同じ自転車店を営んでいる。
 水戸藩家老という重職にあった同家の面影を今に伝えるものはあるか。
 「殆どありません。水戸を離れ逃げ回っている間に、家は荒された上没収された物もあったでしょう。残った物は二代目石見守重政の念持仏、系譜、それに四代目重道が享保6年(1721)家老となり従五位下に任じられた時の証書ぐらい」と、現当主の重一さんはいうが、先の戦災で焼失したという。
 同家の墓地は、水戸市元吉田町の薬王院にあるが、面積は約350平方メートルと広大なもの。このあたりに鈴木家の威勢が偲ばれる。先祖の供養が願い。
 「鈴木家の屋敷は、現在の水門町あたりにあって、「水門屋敷」といわれていたという話です。屋敷の中に水門があったと聞いています」と重一さんは当時の地図を見ながら語った。天狗、諸生両派の弾圧が家族まで及んだのは事実だが、鈴木家の場合は、「丁度、山吉田から水戸に修行に来ていた親類の鈴木真喬は、重棟らの斬罪の報を知り危険を感じ、重棟の妻や重棟の父、朝比奈弥太郎の妻など67人を連れて、江戸から海路遠江舞坂を経て山吉田に入ったのです。寺などに数か月隠れた後、紀州和歌山や駿州朝比奈村など転々としたが、遂に、追手に捕まり水戸へ送られたという。結局、病気や自刃により大部分が死んでしまいました。」 大脱走は失敗に終わったわけだ。
 重一さんの望みは二代目重政の念持仏(聖観音菩薩)を一日も早く重政の墓の側へ納めることと、同家の系譜を平易にまとめることだという。
茨城新聞社刊行 昭和52年発行 「茨城人のルーツ」より
  
死亡場所 赤沼獄舎
  死亡年月日 慶応4年(1868)4月23日
墓地 薬王院
  関連サイト 水戸 城南 Ⅲ(薬王院) (史跡訪問の日々 2017.7.9)
    水戸 城南 Ⅱ(薬王院) (史跡訪問の日々 2013.3.1)
    薬王院 (戊辰掃苔録)