結城朝道(寅寿)
ゆうき ともみち (とらじゅ)
清巌寺表門結城家墓所150年記念柱結城寅寿墓結城寅寿墓蒼泉寺表門結城寅寿墓結城寅寿墓
<写真をクリックすると拡大します>(2020.7撮影)
 根源としての結城寅寿
 水戸藩二代藩主・徳川光圀(頼房の子)の時代、天和三年(1683)に、南北朝時代の南朝の忠臣として知られる結城宗広の子孫が白河(福島県白河市)で零落生活をしていたところを光圀に見いだされ、水戸藩に仕えている。この結城氏から江戸時代後期、門閥派結城党の首領とみなされた結城寅寿が出た。
 結城氏には、中世に現在の茨城県結城市を本拠に同地方を長く支配した結城氏がいるが、光圀に見いだされたのは、同氏から分かれた白河結城氏である。こちらは福島県白河市一帯に勢力を張り、白河市街地東方の山地にその城跡「白川城跡」を残す。東北本線白河駅北側の白河城(小峰城)も、白河結城氏が南北朝時代に築いたのが始まり、といわれている。白河結城氏も中世に長く勢力を保ったが、お家騒動が主因となって没落、江戸時代には農民になっていたという。
 結城明姫著『歪められた真実の歴史 –幕末水戸藩に於ける一考察-』によると、光圀は『大日本史』編纂のための資料探索の過程で白河結城氏の子孫の持つ古文書に目を止め、名家の没落を惜しんで水戸家に仕えさせた。また当時、中畠姓を名乗っていたのを結城の姓に戻し、白河結城氏の宗家と定めている。白河結城氏は三家系に分かれ、それぞれ直系を主張し、近代まで宗家争いが尾を引いていたが、調査により徳川幕府が光圀に引き立てられた水戸結城氏を白河結城氏の宗家と認めたことが確認され、決着したという。
 『水戸市史』中巻三によると、水戸藩士となった結城氏は三代・晴久のとき執政(家老)となり、禄千石を与えられている。その後長く、結城家にこれといった人材の出ることはなかったが、江戸時代後期に至って寅寿が現れたという。
 結城寅寿は本名を朝道といい、寅寿は通称。文政元年(1818)に生まれ、早くから藩内の評判になるほどの才を発揮している。天保四年(1833)、就藩(国元入り)中の九代藩主・斉昭の耳に入り、召し出されて小姓となる。十六歳だった。
 こうして、藩政改革を進める斉昭の身近に、門閥派の中から結城寅寿が登用される。同時期、斉昭の側近として改革派・尊攘派のエース藤田東湖がいた。寅寿より十二歳年長の東湖は、その父・幽谷が古着商を営む町家の出ながら一代にして二百石取りの藩士の身分を得ており、門閥派から見れば「成り上がり者の子」であった。
 天保十一年(1840)一月十一日、二十三歳の寅寿は小姓頭に昇進。同日、東湖は側用人(役職としては小姓頭より上)になるが、同年九月には寅寿が東湖を抜いて参政(若年寄)となり、一躍、門閥派の新星として輝きはじめる。「それは斉昭がかねて門閥派からも人材を求めていた目がねにかなったわけであろう。東湖がいかに信任が厚くとも、ついに参政にあがれなかったのは、新参の者には身分制度の壁がなお固かったからである」(『水戸市史』中巻三)という。
 天保十三年(1842)三月、寅寿は二十五歳で執政となる。斉昭の藩政改革が進む中、門閥派ながら斉昭の信任を得た寅寿に、改革に不安・不平をいだく門閥派の藩士たちの期待が集まる。寅寿は、そうした藩士たちに囲まれ、さながら一党を結成し、その首領に就任したかのように見られた。以後、寅寿を中心とする、そうした人々の集まりに「結城党」の呼称を与え、幕末の門閥派政権をその流れの中に位置づける見方も生まれた。
 斉昭のもと、やがて寅寿は東湖ら改革派との対立を深めていく。弘化元年(1844)、藩政改革の行き過ぎを幕府にとがめられ、斉昭と東湖ら改革派は謹慎などを命ぜられるが、寅寿は処分を免れ、藩政の実権を掌握。けれども、海防の必要性などから幕府側の情勢も変わり、斉昭らの処分も緩和されつつあった事もあり、寅寿も弘化四年(1847)には三十歳で隠居を命ぜられ、家禄も半減されて五百石となる。それでもなお政権内部に同調者がいて、隠然たる勢力を保った。
 しかし嘉永二年(1849)、斉昭をはじめ改革派が復権すると、寅寿一派の勢力は衰退の一途をたどる。そして安政三年(1856)四月二十五日、寅寿は水戸藩役人の手によって突然処刑(斬殺)された。藩主父子の抹殺と改革派の追放を謀ったため、とされるが、その理由は寅寿一派を一掃するために後からつくりだされた、という見方もある。改革派政権内に寅寿らを死罪にすべし、という強硬論があったのを、藤田東湖が反対し抑えていた、ともいわれる。
 その東湖は、寅寿処刑の半年ほど前、安政二年(1855)十月二日、安政の大地震に命を奪われた。斉昭は寅寿処刑の前、寵臣だった寅寿のその後のふるまいについて、近親憎悪にも似た気持ちを書状の中で吐露している。
常陽芸文・「2006年12月号」より抜粋引用
 
結城寅寿 墓所 清巌寺(せいがんじ) 茨城県水戸市元吉田
    蒼泉寺(そうせんじ) 茨城県常陸大宮市
  関連資料・サイト 「歪められた真実の歴史」結城明姫(あき)(参考文献)
  フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
結城寅寿 -仕掛けられた罠- (歴史館だより 117号 2018.12.4 茨城県立歴史館 )
    「水戸藩内抗争の犠牲者結城寅寿」『茨城人のルーツ』茨城新聞社刊行 昭和52年より
「水戸藩家老、失脚の真相は」結城寅寿生誕200年子孫と識者に聞く
    ふたたび結城寅寿…仕掛けられた罠 (顎鬚仙人残日録 2018.8.21
    長倉城と結城寅寿の墓 (顎鬚仙人残日録 2017.8.31
    結城寅寿の墓 (広報 常陸大宮「ふるさと見て歩き57」 2011.7
    常陸大宮 Ⅱ(蒼泉寺) 結城寅寿墓 (史跡訪問の日々 2011.2.6
    水戸 元吉田(清巌寺) 結城家墓 (史跡訪問の日々 2010.1218