諸生党の碑 ~中~
 水戸市の西方、123号国道が渡里台地から飯富方面に下る坂を金沢坂と呼ぶ。坂の北側崖縁は緑地。水戸市はここに老人福祉施設を建設する計画を立て、用地の測量を行った。うっそうとした杉木立は昼なおうす暗く、人を寄せつけない。
 けもの道のような細い道を分け入った市職員は、まもなく杉木立の向こうにこんもり盛りあがった塚とその上に立つ石碑を見つけ、息をのんだ。「なんの碑だろう」。塚の石段をあがり、碑文を見た職員は驚いた。「まさか…」碑文には
  市川三左衛門会津ノ戦
  終り国元へ引揚ケ家来
  市毛善八郎付随ス弟市
  毛熊五郎為記念建碑ス
       當年八十三才
とあった。市職員の驚きはもっともであった。賊軍となった諸生党の指揮者の家来の弟が、兄の帰水を記念して碑を建てるなんて考えられないことだからだ。
 諸生党に関係する水戸市内の碑で知られているのは、祇園寺(昭和9年建立)と弘道館の戦い十七回忌にあたる明治17年、神応寺に建てた二つ。神応寺の碑は昭和20年8月の米軍による空襲で破壊され、碑文の拓本のみが残っている。いずれも個人を対象としたものではなく、諸生党全体の供養を目的に建立された。
 今回確認された石碑(建立時期は不明)について幕末水戸藩に詳しい茨城大学名誉教授の瀬谷義彦さんは「とても珍しい。よく個人で建てましたね」と感心することしきり。また研究者の間でその存在が知られていなかった点について「(石碑建立の)関係者がひっそり供養してきたからでしょう」と推理する。さらに「渡里台地のはずれにポツンと建てたのはなぜだろう」と語った。
 金沢坂は、明治元年9月末、諸生党が会津から水戸に向かったとの情報を入手した水戸藩が手勢を配した地。諸生党はこれを察知し、金沢坂の南側の堀台地から城下に攻め入り、金沢坂での戦闘を避けている。つまり、碑文にあるように市川三左衛門と家来の市毛善八郎ら諸生党の一隊は会津から水戸に入る際、金沢坂の近くを通過しており、これを記念して通過地点のそばに碑を建てたとも考えられる。
 碑の建つ緑地約六千平方㍍は、共有地だったが市に寄付された。共有地の代表、鈴木操さん(66 -1989年当時-)=川崎市宮前区=は、市毛善八郎のひ孫にあたる。「私は十年前まで天狗党の子孫と思っていました。祖母が天狗党をよく話題にしていたからです。ところが碑があるというので見ましたら市川の家来とあり、諸生党の子孫とわかったわけです」。
 鈴木さんはこれから先祖を熱心に調べた。「善八郎は侍同心だったそうです。弘道館の戦いは敗れ、田野町の弟熊五郎宅に隠れているところを見つかり、長岡で処刑されたようです。これをかわいそうに思った熊五郎がのちに碑を建てたと聞いてます」」と鈴木さん。
 碑はいつ建てたのか、熊五郎の消息がわからないのでなんともいえないが、昭和二年に死亡しているそうだから大正末ごろかもしれない。杉林の中でひっそりと年月を過ごした碑も一度だけスポットを浴びた。昭和11年10月、田中光顕伯爵や教育界で異彩を放った峰間信吉、渡里村村長も務めた渡辺健衆院議員らが碑の供養を行ったのだ。そしていま、再び老人福祉施設の一角に移される話が具体化、日の目をみることになった。
市村眞一
「いはらき」新聞 1989年7月14日 記事
諸生党の碑 ~番外編~
 連載についていくつかのご意見をいただいたので紹介しよう。

◇ ◇ ◇ ◇

新潟県刈羽郡西山町灰爪の畑に、地主が供養碑を建てるという話について友部町の方から建設費の一部を負担させてほしいとも申し入れがあった。またこの方は、同町内の知人らと十月十二日の慰霊祭に出席したいとのこと。ご先祖が諸生党で、灰爪の戦いで戦死したと「いうわけではないが、友部町周辺は天狗諸生の戦い当時「鯉淵勢」と呼ばれた諸生派の拠点だったこともあり、心情的に諸生党を理解できるのだろうか。本人は「歴史を客観的に評価すべきとの意見に共感したから」といっている。
 また昨年天狗党のたどった道千百㌔を三十六日間で完歩した県歩け歩け協会の伊東威光会長は「来年は諸生党のたどった道を歩いてみたいと思う。天狗党だけでは片手落ちでしょう。歴史をこの目で検証してみたい」と夢を膨らませている。
 一方、市毛善八郎の碑についても新たな事実が判明した。碑を建てた時期が不明だったが、ひ孫の鈴木操さんのその後の調べで大正十四年と確認できた。碑には弟市毛熊五郎が八十三歳の時に建てたとあるが、熊五郎が昭和二年十二月に八十五歳で死亡したことを示す資料が見つかり、逆算して二年前の大正十四年とわかった。熊五郎は善八郎の死後六十年目に碑を建てたわけだが、それは形は碑でも縁者にとっては墓であることもわかった。やはり善八郎のひ孫という水戸市飯富町の長谷川正一さん(79)は「しばらく前までは十一月二十三日の命日に供物を持ち寄り、碑の前でお祭りをしたものです」と証言。ただ長谷川さんは諸生党とは知らず「新聞を読んで初めてわかりました」という。
 碑文には「市川三左衛門会津ノ戦終り国元へ引揚ケ家来市毛善八郎付随ス弟市毛熊五郎為記念建碑ス 當年八十三才」とあるが、子孫の間には諸生党であることは言い伝えられていなかったようだ。長谷川さんは「善八郎の長女が私の祖母ですが、祖母が九歳の時に侍が家に来て天井板を槍で突き刺すなどして善八郎を探したという話は聞いています」といい、「家を荒らしていったのが天狗党だったのですね」と感慨深そうに語った。
 また熊五郎は亡くなるまでまげを結っていたという。そんな頑固者だから碑を建てられたのだろうか。それほどの頑固者でも墓を立てるのには気がひけ、あいまいな文句の記念碑しか建てられなかったのだろか。
 鈴木さんが「忘れな草」と題した一通の契約書を見せてくれた。熊五郎が預かった善八郎の子供たちにあてた“遺書”である。そこには「善八郎殿の墳墓の地たる渡里村字金沢の地を協力一致し、互いに義を重んじて永遠に保存すべし(中略)いやしくも私欲を起こし争い事などせぬ様深く慎みて先祖の名を汚すべからず」とあった。
 共有地はそっくり市に寄付され、市老人福祉施設の用地として永遠に保存されることになった。「遺書にそむくことなく、これでよかったと思います」と鈴木さん。碑も敷地内に保存されるという。熊五郎の兄を想う心は、現在に伝わり、碑は同時に墓として子供たちに守られていくことだろう。

市村眞一
「いはらき」新聞 1989年7月20日 記事