辺無光恩
 碑文
 

  碑文
 恩光無辺
 明治戊辰悲徳川宗家之衰廃慷
 慨赴難者水戸藩士中不下数百
 人而
皇恩洪大録宗家後焉遺霊亦可以
 瞑矣茲挙其姓名録干碑脊云尓
 昭和九年甲戊秋
        朝比奈知泉  撰
        室田義文  篆額

  読み下し(「知恩」編集委員会)
 明治戊辰徳川宗家の衰廃を悲しみ慷慨(こうがい)
 難に赴く者水戸藩士中 数百人を下らず
 皇恩洪大宗家を後に録す いづくんぞ遺霊亦以て
 瞑すべけんや 茲に其の姓名を挙げ碑背に録して云とす

  碑文の大意(「知恩」編集委員会)
 最後の将軍徳川慶喜公は慶應三年十月十四日に大政奉還した。翌年一月
に薩長藩の策謀・挑発により鳥羽伏見の戦争となり旧幕府軍は敗北、徳川
慶喜公は朝敵となり旧幕府は崩壊し公は謹慎し、徳川宗家は存亡の淵にあ
った。
 御三家として宗家を支援する立場にある水戸藩「諸生派」は徳川宗家の
衰退を悲しみ、又、薩長藩の策謀に憤慨、数百人の藩士がこの難局に立ち
向かった。東北列藩同盟の一翼を担い、会津軍とともに戦ったが戦局利あ
らず、多くの藩士が戦没した。最終的には西軍・薩長藩の勝利、東軍・会
津藩の敗戦となり戊辰戦争は終結した。
 戦国の習い、徳川宗家は滅ぼされるところ、天皇の至高の温情により徳
川宗家は存続を許された。有難い極みである。殉難諸士も安心されたい。
 又、どのようにしてこの難局に赴き殉難した人達を供養すべきであろう
か。それは、殉難者姓名を挙げ、この碑の裏面に刻して冥福を祈ることは
言うまでもないことである。故にこの碑を建立したのである。