赤沼獄舎跡
(あかぬまごくしゃあと)
赤沼獄舎跡碑霊魂碑赤沼獄舎跡碑赤沼獄舎跡碑由来記
<写真をクリックすると拡大します>(2020.5撮影)
 水戸城の東側に位置する赤沼獄舎。市川勢が戻ってくると知った水戸藩は、獄舎にあった市川勢に近い諸生派の重臣、家老天野伊内、若年寄近藤儀太夫ら四十余人を9月28日から10月1日の間に次々に斬殺した。この獄舎では、かつて諸生派が天狗党の藩士や家族を処刑した。双方の血が大量に流された悲劇の場所だ。
 (市村眞一『市川勢の軌跡』茨城新聞社 2008年)より
 幕末水戸藩の争乱において赤沼獄舎では多くの人々が犠牲になった。
 天狗党の武田耕雲斎の妻は、敦賀で処刑された耕雲斎の塩漬けにされた首を膝に抱え込まされたまま斬首され、その子である10歳と3歳の子も斬首された。この件は諸生党の行った残虐として語られることが多い。
 しかし、諸生党の城代家老鈴木石見守重棟及びその幼少の子供たちが斬首され、首を晒されたことが語られることはほぼない。鈴木石見守重棟は市川勢と行動を別にし、江戸に潜伏したが捕えられ4月23日に赤沼獄舎にて斬首され、 幼少の二人の息子も斬罪とされている。8歳の長男 銛太郎は従容として刑に処されたが、3歳の次男 甚次郎は菓子を手に、兄と同じ目になるのは嫌だと泣きながら斬られたという。
 一方は悲劇として語られ、しかし一方は黙殺されてきた。歴史は公平でなければならない。
(HP管理者)
  
建碑場所 茨城県水戸市東台
建碑年月
昭和13年(1938)8月
建立者 根本常次郎ほか
  関連資料・サイト 霊魂碑(赤沼獄舎跡) あさあけ 2018.10.14
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    赤沼獄舎跡 (大森信英 当会元会長) (PDF)
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