水戸藩江戸藩邸では改革派の武田耕雲斎などが藩主慶篤を奉じており、筑波挙兵を憂いた藩主慶篤の意向を受けて鎮撫策として自重解散を勧めたが成功しなかった。それに対して弘道館の学生たち(諸生)から藩の混乱を憂う声が起こり、大洗町の願入寺に多数集まって筑波勢鎮撫の決議をし、城代朝比奈弥太郎、家老市川三左衛門などに江戸に出て事態の解決にあたるよう嘆願した。
門閥派の朝比奈、市川たちはそれを奇禍として改革派鎮派の協力も求め、諸生を含めた五百余名が江戸の水戸藩邸に入り藩主慶篤と会見した結果、6月1日に朝比奈、市川たちが新たに執政の要職を占め、武田耕雲斎などの改革派は免職になった。この頃から門閥派を筑波勢の天狗党に対して諸生党と呼ぶようになる。 |
(イバイチの幕末の水戸(2)[ 天狗党の乱(元治甲子の変)その2]H23-9-1作成 より) |
|
元治元年(1864)4月29日 弘道館諸生願入寺集会→筑波勢、諸生ともに「斉昭の遺志」を主張
激派(筑波勢)討伐の兵をあげる(大洗・願入寺)→100 人以上
5月2日…大洗願入寺に弘道館文武諸生が集会。内藤耻叟(弥太夫)起草。
「眼前の君主」に対する礼節…家臣として守るべき第一の責務→『告志篇』の第2項
「近来狂暴の士民等尊王攘夷之名を借て、累代厚恩の君上を指置き、各其身の分限を忘れて」「我々是迄日々弘道館に出入し、文武之業を勤めて以て君上の恩に報せん事を謀る。今此時に富て国之逆臣を除き、賊之横行を制するに非んば、何を以て地下に烈公に見へ奉らん」 ・「諸生党建言」内藤弥太夫(耻叟) 起草 (PDF) 「諸生党建言(書き下し)」(PDF)
※『告志篇』…文久3 年(1863)、弘道館から刊行→「斉昭の志」を確認する意図か? |
「幕末の水戸藩 -天狗と諸生の乱-」永井 博 2019.6.21 |
|
磯浜海防陣屋を退去した市川勢は、諸生党旗揚げの場の一つでもあった祝町の岩船山「願入寺」に立て籠もりました。当然、松平頼徳は追討の命を下しました。大砲隊や300人余の手兵が出動したため、市川勢はとても防ぎきれないと覚悟し、守備の要員多数を残して、あらかじめ用意し隠しておいた舟で那珂湊へと逃げ渡りました。
大砲が打ち出され、鉄砲による交戦もありましたが、守備要員として願入寺に残っていた市川勢も結局対岸へと逃げましたので、那珂川南岸の敵は一掃されました。
雨中、「敵兵はことごとく湊へ敗走」という伝令が、頼徳のいる磯浜陣屋へ走ったのはもう夜でした。
この際、願入寺の堂塔はことごとく焼失してしまいました。残ったのは山門だけでした。市川勢が逃げる際に放火したのか、市川勢の残党が天井裏や床下に隠れていたりするかもしれないとして大発勢が火を付けたのかは不明ということのようです。 |
((二)天狗党の乱と大洗 ②願入寺攻撃、焼失 大洗町の歴史 大洗町アーカイブ 2015 より) |
|
願入寺は、親鸞の孫である如信により福島県石川郡古殿町に鎌倉時代に開かれました。当初は大網御坊と言いましたが、二代下った空如の代に至って、願入寺と号するようになりました。江戸時代前期までは大洗町外にありましたが、徳川光圀(義公)が水戸藩主を務めた延宝年間(1673〜1681年)以降、大洗の祝町に移されてきます。
願入寺の本堂や開基堂には、本尊の阿弥陀如来立像の他、親鸞聖人の画像や香合などの県指定文化財が保管されています。
境内や周辺には、徳川光圀お手植と言われる銀杏や磯節普及に努めた竹楽坊の像、江戸時代の敵討で打たれた成瀧万助を祀ったお堂などがあります。 |
(大洗観光協会公式ホームページ より) |