北越戊辰の役当処戦没者 供養塔 | ||
<写真をクリックすると拡大します>(2018.5/2018.8撮影) | ||
慶応4年(1868)5月14日早朝、それまで小規模な戦闘を繰り返してきた市川勢は、灰爪・市の坪で新政府軍と最大規模の戦闘を行った。新政府軍の攻撃に対し、灰爪にいた筧隊は、ひとまず市の坪(出雲崎町)まで引き、駐屯していた朝比奈隊と合流して兵力を増強し、再び灰爪へと引き返す。諸生党は灰爪の丘を奪還するため、刀や槍を武器に灰爪の坂を勇猛果敢に突撃した。泥まみれの激しい肉弾戦の末、ついに丘の上までたどり着く。会津藩組頭の井上哲作は、この激闘の様子を「水戸藩大いに奮発、その山上へ白刃抜き打ち、たおされ、たおされ、終まいにかけあがり、敵追払い」(『井上哲作戦争日記』)と書いている。
しかし、新政府軍の援軍が到着して砲撃が開始されると弾雨にさらされ、諸生党は総崩れとなり、寺泊、弥彦方面まで撤退した。 諸生党戦死者は灰爪で49人、市の坪で19人に及ぶ。北越での諸生党の戦いの中で、最大の犠牲者を出した激戦であった。 灰爪の高台には地元の方々の厚意により戦死者を葬った塚が今も3~4基残り、慰霊が続けられている。 昭和52年(1977)灰爪の畑から、水戸藩諸生党の戦死者と思われる遺骨が4体発見された。これらの遺骨は、新潟大学医学部で鑑定され、顔面に鋭利な刃物による損傷が2か所ある30歳前後の男性、右頭部に鋭利な刃物による斬創が2か所ある30歳代後半の女性、傷のない20歳代前半の女性、刃物による切創がある男性と思われる右上腕骨と判明した。 遺骨が発見された場所には、地元有志らの尽力によって、平成元年(1989)に「戊辰戦争当所戦没者供養塔」が建立された。 水戸藩士殉難150年記念事業として、平成30年(2018)に灰爪の丘顕彰碑修復および案内板を設置、令和元年(2019)にお地蔵さん建立をした。 |
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北越戊辰の役当処戦没者 供養塔 | ||
建碑場所 | 新潟県柏崎市西山町灰爪669番地 | |
建碑年月日・建碑者 | 平成元年(1989)10月12日 地元有志と茨城有志により建立 | |
慰霊式 | ||
平成24年(2012)10月 | 水戸藩戊辰戦争戦没者慰霊祭を挙行 | |
平成30年(2018)5月 | 灰爪 慰霊祭 水戸藩士殉難150年記念事業実行委員会 主宰 |
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令和元年(2019) | 灰爪 お地蔵さん建立 (水戸藩士殉難150年記念事業) | |
令和4年(2022)7月 | 灰爪 慰霊祭を挙行 | |
関連資料・サイト | 「戊辰戦争・灰爪の戦い」 荒木家光氏(灰爪の丘所有者・供養塔建立発起人代表) 遺稿(PDF) | |
「刈羽郡西山町灰爪出土の人骨群所見」 新潟大学医学部解剖学第一教室 | ||
「灰爪村部落誌資料」(PDF) | ||
坂さんぽ⑫ 「灰爪の坂」その1 (PDF) | ||
坂さんぽ⑬ 「灰爪の坂」その2 (PDF) | ||
柏崎 Ⅳ 史跡訪問の日々 2011.9.12 | ||
北越・会津戦争 イバイチの幕末の水戸 (8) H23.9.25作成 H24.7.25改訂 | ||
Googleストリートビュー | ||
※戦死した市川勢諸士を手厚く葬ってくださった地元の方々、現在も慰霊・法要を続けていただいている方々に、恩光碑保存会は改めて深い感謝の意を表します。 | ||