戦死供養塔
(宝寿院)
宝寿院遠景宝寿院山門宝寿院本堂戦死供養塔戦死供養塔村女人中戦死供養塔不動明王像本尊の弾痕
<写真をクリックすると拡大します>(2020.5/2020.8撮影)
 9月27日未明、大田原、彦根、阿波の三藩兵500人が市川勢を攻撃した。朝食の準備をしていた市川勢は、あわてて応戦。激しい戦闘となり、市川勢9人が戦死した。いずれも宝寿院墓地に埋葬されたが、弔うものもなく無縁仏となっていた。20年後の明治21年(1888)9月27日、哀れんだ地元の女性たちが供養墓を建てて慰霊した。
 戦死した9人の氏名は不明。
  (市村眞一『市川勢の軌跡』茨城新聞社 2008年)より
 宝寿院明覚寺第三十世英昭住職のお話では、市川勢が宿泊した頃の宝寿院本堂は現在の位置とは違い、山門に近い現在は池がある辺りであったとのことです。また、本尊の不動明王像には市川勢が戦闘を行った際に外から銃撃を受けた弾痕が残っており、本尊の向かって左下には銃弾の痕が見られます。 
 平成30年5月には、供養墓が建立後百年を経て土台に歪みが出ていたため、住職により供養墓の修復を行っていただいております。
 戦死した市川勢諸士を手厚く葬ってくださった地元の方々、現在も慰霊・法要を続けていただいている方々に、恩光碑保存会は改めて深い感謝の意を表します。
会長 大森信明
戦死供養塔
建碑場所 栃木県大田原市片府田1075-4(宝寿院)
建碑年・建碑者 明治21年(1888) 地元女性(村女人中)
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※平成30年5月に宝寿院明覚寺第三十世英昭住職により供養墓の修復をしていただきました。
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