松山戦争後に逃げ延びてきた市川勢は、尚もこの地(旧野手村 現匝瑳市今泉)にて追討軍と一戦を交えるが、利あらず14名が犠牲となった。置き去りにされた遺骸は、地元の人々によって厚く葬られ、この辺の土地は「きられさま」という小字のように呼ばれてきた。
しかし、昭和40年代の土地改良耕地整理によって、「きられ様」の正確な所在が分からなくなってしまっていた。平成20年12月に、匝瑳市「水戸藩士の史跡を顕彰する会」の方々によって「きられ様」の場所が特定され、市内今泉地区の長泉寺跡に墓標が建てられた。また、翌平成21年11月には、林千之氏により同所に「水戸浪士ノ墓」が建立された。 |
|
<この地で戦没したと思われる方々の姓名を次に記します> |
筧平十郎 山田照七郎 宇多川銀平 大嶺小太郎 和田銀平 丹下乙吉 佐藤亥之吉
佐藤市之助 大髙俊兵衛 雨口理郷 伊藤徳介 青山惣七 寓田常之介 生井秀三郎 |
水戸市役所調べ(諸生党戦死者名簿)より |
|
「斬られ様」について 寄稿文 匝瑳市 南波鹿子様 記 |
ご協力 匝瑳市 大川秋嘉様、今泉 林静様 |
明治元年会津城が落ち、奥羽地方も鎮定し、水戸藩から加勢に行った市川三左衛門、朝比奈弥太郎引率の佐幕党員百余名は、藩のために尽くしたという誇らしい気持ちで帰藩した。所が水戸藩は勤皇党に変わっていて、歓迎されるどころか追い出されてしまった。仕方なく利根川を下り、浜伝えに八日市場方面に上った。現国保病院東北に着くや追って来た勤皇党と戦争となり朝比奈以下25名戦死し、中台に葬られ脱走塚と称す。残党は刀傷を負い乍ら野手方面に下り、現野栄町役場東側に待ち伏せ勤皇党と戦争、14名戦死、尚も、市川三左衛門以下の残党は、光町方面へと逃げのび、それぞれ変装し何処かへ落ちたという。置き去られた屍は、今泉地区の人々に厚く葬られ現野栄町東側に「斬られ様」と称され、碑も建てられた。参詣人も多かったという。勤皇党佐幕党の戦争跡である。今から128年前の明治夜明け前のでき事であった。 |
平成8年 南波鹿子 記 |
|
|
南波様より聞き書・加瀬俊雄様 記 |
平成20年7月10日 先生曰く、私は80歳、生家は野手旧村大根畑、父石橋緒右衛門、旧学校教師 現在茶道の師として生徒と共に楽しむ。 |
① |
松山戦争にて諸生派敗れ敗走者は野手村に逃れて来て、民家に一夜泊り、数名はそのまま西を目指し逃れ、「衣服を貰い受け平服に着替えて逃れ行く。代替えに刀剣を置き残したと言われる。残った数名が追って来た天狗派に首を打ち取られる。 |
② |
「斬られ様」と称され、地元では石碑を建て供養した。 |
③ |
水戸藩士松山戦争脱走塚百年慰霊祭にも、この場所へ来て供養すると語る。 |
④ |
此の記について南波先生は、郷土史の研究に熱心でいろいろの人々の聞き学や、書物記録を調べ、現場に足を運んで書したと語る。 |
|
|
建碑の場所は、現状は昭和40年代に土地改良耕地整理により田畑の姿が変わり、現状では、当時の面影はなく、場所の特定はできません。現在は此の辺の土地を「きられさま」という小字「こあざ」のように呼んでいる。ここに諸生派13名が戦死・葬られている。
歴史は風化すると言う言葉が現実になる。 |
(知恩第4号より) |