長岡原刑場跡
(ながおかはらけいじょうあと)
刑場跡景観刑場跡地刑場跡地跡地区画石塔など
<写真をクリックすると拡大します>(2020.7撮影)
 
 現在、長岡原刑場跡地(水戸市吉沢町)と思われる場所には、石を並べた方形の区画に、卒塔婆が建てられているのみである。区画の後方の草藪の中には石塔の一部などが無造作に散乱していた。なお、かつてこの地には「弔魂之碑」が建てられていたが、現在は蓮乗寺に移されている。
(HP管理者)
 明治2年(1869)年4月3日:「水戸藩」が、“水戸諸生党勢の市川弘美(三左衛門、善次郎、主計とも)”を、「叛逆無道重々不行届き至極大胆の致し方に付、後昆の誡として、上下御町引き渡し、生き晒らしの上、長岡原に於て、逆磔(さかさはりつけ)に行なふ者也」と断じて、「処刑」するとともに、“諸生党員の佐藤万衛門、照沼泰助、松葉介之允、大髙熊之介ら4名”も、同所において「磔刑」に処す。
 尚、「水戸藩」は、“生粋の諸生党員ではなかったものの、当時の諸生派と目されて仙台で捕縛されていた吉野英臣、内藤三之介、吉野金之助、本郷金衛門、高倉平三郎ら5名”をも、「斬首梟首刑」に処した。
 当時の市川弘美に下された「逆磔」という刑罰は、水戸藩政史上、極めて稀なものであったかと。この時の、当時の逆磔刑の様子については、“明治新聞からの抜書き”とされる『水戸藩紀事』には、「水(戸)藩元家老・市川三左衛門(は)昨辰年(に)脱走して、奥州より (中略)・・・先頃、東京青山辺(りの)剣術師範人の家に潜伏せしを、水戸神勢隊に召捕(えられ)、水戸表に引(か)れしが、四月上旬(に)水戸長岡原に於て、逆磔に掛けられたり、尤(もっとも)逆磔と云ふは、生(いき)なから逆さまに致し、晒し置(く)其上にて突殺(つきころ)し候由(そうろうよし)。元来、人を逆さまに致し置(く)時ハ、忽(たちま)ち死する故(ゆえ)、額(ひたい)に穴を明け血を出し候得ハ、生き居(り)候由ニて、(市川)三左衛門の額を、錐(きり)にても、みぬき(=視抜き)穴を明け、其党数人残らず刑せらるゝを見せ、其上にて突殺候事のよし」と、その悲惨な死を描写しており、また、「長岡原の刑場へ(の)見物人(が)山の如く(に)詰め掛け尺寸の地をも余さず、並木の両側へは飴菓子などを売る商人等(が)余多(あまたの)見世(みせ:=店)を張り、其状(は)恰(あたか)も祭礼場の如し、刑場へ斯(か)く大勢出掛けしは、前代未聞と人々語り合へり」と伝える本もあります。
 尚、市川弘美の処刑が執行される寸前、つまりは、“その死に際(ぎわ)”に、「勝負は、これから!!!」と、“市川が叫んだ”、とする話もあります。いずれにしても、幕末期から明治当初期に掛けて、時の幕府や新政府軍を相手とし、水戸藩内における抗争などを、その最期の時まで戦い抜いた市川は万感の思いを込めて、次の辞世を詠んだのでしょう。(※HP管理者註)

「君ゆえに すつる命はおしまねど 忠が不忠になるぞ悲しき」
 (ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾伍)より
※市川の辞世は処刑に際して詠んだものではなく、江戸で潜伏した青山百人町の剣道師範村松宅に書き残したものとする説があります。(HP管理者)
  
場所 茨城県水戸市吉沢町
  関連資料・サイト 「弔魂之碑」解説ページへ
    「附 諸生党・市川三左衛門」 山形紘『水戸藩の戊辰戦争』崙書房1980.3より抜粋
    ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾伍
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