1.はじめに
2022.7/1~2、青天に恵まれ、水戸殉難者恩光碑保存会は会津・新潟慰霊旅行を行いました。旅行の結果を会長・大森より報告します。
この旅行は新型コロナの影響で2年延期となったため、3年越しでの実現でした。新型コロナが完全には落ち着いていない中、実施できて感無量です。振り返って見ると、新型コロナの第6波が落ち着き、第7波の感染拡大が始まる前の絶妙なタイミングでした。旅行には水戸市から志田教育長を始め4名、恩光碑保存会から15名の総勢19名が参加しましたが、猛暑による病人もなく無事終了することが出来ました。関係したすべての皆様に感謝申し上げます。
旅行の計画は、これまで取り仕切っていた岡見事務局長が役員をお辞めになったことから、慣れないメンバーで試行錯誤でした。ゼロからの計画は無理であったため、2018年の150周年記念事業での旅程を参考にして立案したのですが、新型コロナの影響で会津での慰霊祭が中止を余儀なくされたため、参拝だけに変更しました。また他も前回と同じではつまらないと思い、鶴ヶ城見学、戸崎留五郎の墓の参拝を追加しています。旅程は次の通りでした。
7/1 |
市村眞一先生による講話(行きの車中にて) |
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会津若松・鶴ヶ城見学 |
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昼食(幸泉小法師) |
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会津若松・諸生党鎮魂碑・参拝 |
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白虎隊記念館見学 |
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弥彦宝光院・戸崎留五郎墓・参拝 |
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宿泊(弥彦温泉みのや) |
7/2 |
寺泊法福寺・佐藤図書墓・参拝 |
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灰爪供養塔・慰霊祭 |
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灰爪町内会との交流会(角さんの台所) |
2.市村先生講話
行きの車中で、顧問の市村眞一先生が貴重なお話をしてくださいました。先生は最近、司馬遼太郎原作で河合継之助を描いた映画『峠』をご覧になり、諸生党の映画を作ったらどうなるだろうと思いを馳せたとのこと。その時思い浮かんだタイトルは「彷徨」。市川勢はあてもなくさまようことになり、このタイトルがふさわしいと思ったとのことです。
まず先生のお話で興味深かったのは、先生が若い新聞記者の頃、茨城を代表する人物の子孫にインタビューし、『茨城人のルーツ』をお書きになった時のエピソードです。40年ほど昔のことで、その頃は個人情報もおおらかで、まずはお墓に行き、管理人からご子孫の連絡先を聞いて取材に行ったそうです。いの一番は、水戸徳川家のご当主、徳川圀斉さん。当時徳川ミュージアムの奥にお住まいがありました。水戸家は普通マスコミの取材を受けないとのことですが、取材に応じたのは先生のお人柄でしょうか。圀斉さんは、自分のお名前が、水戸藩を代表する光圀公と斉昭公から一字ずつもらっており、荷が重くて嫌いだとおっしゃったとのことです。その後、藤田東湖、市川三左衛門、武田耕雲斎、結城寅寿などたくさんの人物のご子孫を取材されました。この経験を通じ、歴史、特に幕末の水戸藩に興味を持たれたとのことでした。
次に興味深かったのは、作家・吉村昭さんとのエピソードです。吉村さんは徹底的に取材をして小説をお書きになる方で、吉村さんが『桜田門外の変』の取材で、茨城県立図書館を訪れていた時、近くの茨城新聞社に立ち寄り、市村先生が対応されたことがお二人の出会いでした。吉村さんはその後『天狗争乱』の取材でも度々水戸を訪れ、その度に市村先生とお酒を飲んだとのこと。市村先生は吉村さんに、「『天狗争乱』の後は、諸生党のことを書いてください。諸生党のことも書いて、幕末の水戸藩は完結します。」とお願いしたそうですが、吉村さんは承諾せず、「市村君、君書きなさい。」「いや私は書けません。」といったやりとりをした後、吉村さんは承諾しないまま帰られ、二人の別れとなりました。その後、吉村さんは癌を患い、闘病中に自らカテーテルを引き抜き自殺するという、壮絶な最後を遂げたことが報道され、市村先生は大変衝撃を受けられました。それと同時に、諸生党のことは自分で書くしかない、と決心されたそうです。そうして、2008年『市川勢の軌跡』、2015年『大志』をお書きになられました。『市川勢の軌跡』をお書きになる際は、毎週末地図を片手に自ら何千キロも運転して取材されました。そして、現地に行かなければわからないことも取材され、本にまとめられたのです。『市川勢の軌跡』は反響を呼び、この手の本としては異例の再版をしました。『大志』は、先生が興味を持たれた大子の郷士の三男、黒崎雄二(大三郎)を主人公にした小説です。雄二は市川勢の転戦を生き延びました。その後明治6年に渡米し、イギリスに渡り、明治17年に帰国しています。敗軍の一番身分の低い立場の者が、何故この時代に外国に行けたのか、興味が尽きないとのこと。雄二は、明治39年に史談会のインタビューに応えています(黒崎雄二君戊辰戦争経歴実談)。これは、雄二が大子を脱出して市川勢に加わり、筧隊の一員として佐渡に渡り、会津戦争、弘道館戦争、八日市場の戦いを経て脱出して潜伏、明治5年に復権して外国に行くまでの証言で、市川勢側の者が証言した唯一の貴重な資料です。HPで閲覧できますので、ぜひご一読願います。
(http://www.onkouhi.site/Shidankaisokki_all_kurosaki.pdf)
灰爪の供養塔建立のエピソードも興味深いお話でした。昭和52年6月、灰爪の丘で荒木様が農作業中4体の骨が見つかり、刀傷などがあったため水戸藩士の骨と推定されました。荒木様は供養塔を建てたいと思い、水戸市に陳情に来られたのですが、諸生党ということで、相手にされませんでした。それを聞いた市村先生が新聞記事に書いたことで70万円の寄付金が茨城新聞社に届き、荒木様は立派な供養塔を建てることができたのです。平成元年10月12日、灰爪で供養塔の序幕式が行われました。その際、市村先生は取材に行かれ、序幕式の記事もお書きになられました。記事は、恩光碑保存会のHPから閲覧できますので、ご参照願います。
(http://www.onkouhi.site/haidumeirehikiji_1989.10.13.pdf)
それから、先生にお書きいただいた、150周年記念事業記念誌『埋もれし人々に光を』をテキストに、市川勢が水戸を脱出してから八日市場で最後を迎えるまでを詳しく講義していただきました。これにより参加者は、これから向かう、会津や新潟で何があったのか、基礎知識を付けて、現地に赴くことができたのです。150周年記念事業記念誌『埋もれし人々に光を』もHPで参照することができます。
(http://www.onkouhi.site/150kinen.pdf)
今回、市村先生が参加し、講義をしてくださったことで、しっかりとした研修旅行になりました。先生に感謝申し上げます。
3.会津若松城(鶴ヶ城)見学
鶴ヶ城では、諸生党が防衛に活躍した西出丸などを散策し、当時に思いを馳せました。鶴ヶ城は堅固な石垣のある非常に立派なお城でした。中世であれば難攻不落であったと思われます。しかしながら、戊辰の役では新政府軍はアームストロング砲といった近代兵器を持っており、これだけの城でも持ちこたえることは困難だったのでしょう。降伏直後の天守閣の写真が残っていますが、大砲を打ち込まれて悲惨な状態になっておりました。
4.一日目昼食(幸泉小法師)
一日目の昼食は、白虎隊記念館近くの食事処、幸泉小法師を予約し、山菜釜飯と天ぷらのセットをいただきました。旅行の数日前に電話があり、釜飯は炊き上がるのに時間がかかるから30分前に連絡するようにとのこと。当日鶴ヶ城を見学していると、また電話があり、到着時間を聞いてきます。10分位で鶴ヶ城を出ることを伝えると、もう時間がないから火をつけることのことでした。到着すると、まだ炊き上がっていないから土産物売り場で待てとのこと。座って待たせてもらうと、まだ蒸れていないので5分待ての指示。面倒な食事処だなと思いながら待っていると、待てない人が食べ出してしまいました。面倒だった反面、炊きたての釜飯はなかなかの美味で、待った甲斐がありました。そうしていると天つゆが出ていないことに気が付きます。催促して出て来た天つゆを見ると、色が薄くて一瞬薄めすぎかなと不安になりましたが、問題ない味でほっといたしました。
5.諸生党鎮魂碑・参拝
食事を終え、徒歩で白虎隊記念館前の水戸藩諸生党鎮魂碑へ移動しました。会津若松の戦闘で水戸藩士は、15~16人戦死したと記録されています。この鎮魂碑は、会津で亡くなった藩士をたたえるため、元茨城県職員で郷土史家の来栖平造さんが発起人となり、白虎隊記念館、会津史談会の協力を得て、2000年5月28日に白虎隊記念館前に建立されたものです。本来であれば、会津若松市、会津史談会を招待して、慰霊祭を行うところでしたが、新型コロナの影響により慰霊祭はできないとのこと。やむなく参加者のみで、静かに参拝させていただきました。会津若松市の御計らいにより、鎮魂碑には献花がされておりました。
参拝を終えた後、私たちは白虎隊記念館の早川館長にご挨拶をし、白虎隊記念館を見学させていただきました。記念館には、市川三左衛門の陣羽織が展示してあります。これはご子孫の市川弘勝氏より寄贈されたものなのですが、初め弘勝氏は水戸の博物館に寄贈しようとしたところ断られ、ご友人であった白虎隊記念館館長(現館長のご曽祖父様)に相談し、こちらに寄贈したとのこと。水戸人として、少し悲しい話です。また会津戦争当時の多数の鉄砲や大砲が展示されておりましたが、一早く近代兵器を取り入れた新政府軍に、旧幕府軍は太刀打ちできなかったことを実感しました。
6.宝光院・戸崎留五郎(藩士)の墓参拝
会津を離れたのち、私たちは市川勢も歩んだ阿賀野川沿いの道を新潟に向かいました。阿賀野川沿いの谷を抜け新潟平野に出ると、一面の水田が広がっており、米どころであることを実感します。本日の宿”みのや”がある弥彦に近づくと、海からそびえたつ弥彦山と大鳥居が現れ、山全体がご神体であることを実感しました。私たちはホテルにチェックインした後、徒歩で宝光院に向かい、東京から自家用車で直接来られた結城さん親子と合流しました。宝光院は、弥彦神社に隣接するお寺です。藩士・戸崎留五郎は、慶應4年6月8日、馬頭見張りでの戦闘で負傷し、同僚に弥彦村まで担送されたのですが、療養の甲斐なくこの地で一生を終わりました。訪問に際し宝光院のご住職に参拝をお願いしたところ、以前水戸の者がお墓の前で言い争いをしたことがあり、そういうことをするなら来ないで欲しいと諭されました。失礼をお詫びし、そのようなことをしないことを誓って、参拝を承諾していただいたのですが、最近でもそんなことがあるのだな、と思った次第です。ご住職にお会いすると、90歳位の高齢の方でしたがお元気で、細くて急な道を上って、戸崎留五郎の墓に案内してくださいました。弥彦神社とつながる鬱蒼とした森の中にお墓はあり、恩光碑保存会として初めて参拝させていただきました。ご住職は私共を気に入ってくださったようで、本堂や新潟県天然記念物の婆々杉を案内してくださいました。本堂には、元々は弥彦神社の神宮寺の本尊であった阿弥陀如来や、新潟県の重要文化財の多聞天立像、十二神将像、親鸞上人像などがあり、普段は公開していないとのことですが快く仏様を参拝させてくださいました。廃寺になったお寺の仏像を引きとってきたため、いろいろな宗派の仏様が祀られており、興味深いお寺でした。婆々杉は樹齢千年、高さ40m、直径10mの大迫力で、強いパワーを放っており、圧倒されるものがありました。また、奥の細道行脚で芭蕉が宝光院に泊まったとのことで、芭蕉碑がありました「荒海や佐渡に横たふ天の河」。
7.弥彦温泉・みのや
宿は、立地、設備、料理、料金などを総合的に見て、150周年記念事業の時と同じく、弥彦温泉”みのや”にしました。最もリーズナブルなプランで宿泊したのですが、夕食には、ノドグロの奉書焼、越後豚のしゃぶしゃぶ、夏野菜の懐石、日替わり4種のお造り、皇室献上米のごはんなど、食べきれないほどの料理が出て、いずれも美味しくて、十分に満足しました。コロナ禍ですので、対面での飲食は禁止させていただきましたが、大森は志田教育長の隣で親しく会話をさせていただきました。お風呂は8階にあり、見晴らしが良く爽快で気持ちの良いもので、大森は、朝の弥彦神社参拝から帰った後の朝風呂も堪能しました。朝食バイキングも種類が豊富で、ごはんがおいしく、皆さん山盛りで食事をされていたようです。コストパフォーマンスの良いお宿だったと思います。
8.弥彦神社
宝光院参拝の後、皆で弥彦神社を参拝して宿に戻る予定でしたが、宝光院参拝に時間がかかったことから弥彦神社参拝を取りやめて宿に戻り、翌朝自由参拝に変更しました。大森は、翌朝4時半に起き、早朝の弥彦神社を参拝したのですが、鬱蒼とした神社の参道に入ると、なにやら奇妙な怪鳥の声が響いています。参拝の後、声のする方へ歩いていくと、怪鳥の声はだんだんと鶏の声に変わっていきました。鶏は天照大御神の天の岩戸神話に登場するなど神道と所縁深く、弥彦神社では、新潟県の天然記念物である”蜀鶏”をはじめ、貴重な在来種を保護育成し展陳しているとのことでした。
9.法福寺・佐藤図書の墓参拝
7/2(土)は8:00に宿を出発し、寺泊・法福寺にある、家老・佐藤図書墓を参拝しました。この日、法福寺ではお葬式があり、ご住職は対応できないとのことで、ご住職に挨拶を済ませ、私たちで参拝させていただきました。お墓は急な坂の上の方にあり、場所を知らなければたどり着くことができません。図書のお墓には墓石がなく、石ころが4個あるだけです。それには次の経緯があります。図書は水戸を出るときから体調が悪かったのですが、慶応4年5月4日病状が悪化し、寺泊の菅沼平助という人の家の軒下に倒れ息を引きとります。菅沼家では菩提所法福寺の同家の墓域に遺体を埋葬してくださいました。しかし、同年10月25日、水戸藩の榊原彦之進ほかが寺泊に現れ、住職を脅して図書の遺体を掘り返し、首を刎ねて持ち帰りました。水戸に持ち去られた首は、市内柵町の高札場に三日間晒されたということです。そのような経緯があったことから、水戸藩の仕打ちが怖くて墓も建てることができなかったのでしょう。心よりご冥福をお祈りいたします。
10.灰爪慰霊祭
私たちは寺泊を出た後、柏崎市・西山支所でトイレ休憩をし、灰爪に向かいました。西山支所から灰爪に電話をしようとすると、エラーが出て通話ができません、聞けばその日、AUで通信障害が発生しているとのこと。西山支所で電話を借りて連絡を取ることができたのですが、この日起きたAUの通信障害はかなり大規模なもので、復旧に2日以上を要し、社会インフラに大影響があったのですが、我々には何も影響ありませんでした。後から考えると、後述するようにご先祖様に見守られていたおかげなのかと思うのです。
10時過ぎ、予定よりやや早めに灰爪に到着しました。その日は35℃を超える猛暑でしたが、ありがたいことに灰爪集落では、集会所を休憩場所に提供し、冷たいお茶を振舞ってくださいました。外が非常に暑かったのですが、集会所で休憩し、体調を整えることができたのは有難い限りでした。集会所では、町内会長の野中様、副会長の池田様にご挨拶し、灰爪の管理を引き受けてくださったことに感謝を述べさせてもらいました。そこで教えていただいたのは、昭和に遺骨が出て来た畑は、池田様の所有の土地であること、尾崎様とは別に、灰爪町内会も従来から灰爪の丘の草刈りを行ってきたことなどです。以前から灰爪の丘を管理してきてくださったことに、改めて御礼申し上げました。私たちは集会所で一息ついた後、礼拝の道具を持って、岡見宮司らと共に、灰爪の丘に登り、慰霊祭に臨んだのです。
北越戊辰戦争水戸藩戦没者慰霊式典
日時 |
令和4年7月2日 11:00~12:00 |
場所 |
柏崎市西山町灰爪669番地 灰爪の丘 北越戊辰の役戦没者供養塔の前 |
「敬称略」 |
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斎主 |
水戸市鯉淵息栖神社宮司 岡見円礼 |
祝辞奏上 |
宮司 岡見円礼 |
追悼文奉読 |
水戸殉難者恩光碑保存会会長 大森信明 |
々 |
水戸市教育委員会教育長 志田晴美 |
玉串拝礼 |
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大森信明 |
水戸殉難者恩光碑保存会会長 |
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志田晴美 |
水戸市教育委員会教育長 |
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近藤喜祐 |
柏崎市教育委員会教育長 |
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野中清孝 |
灰爪集落町内会会長 |
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参列者一同 同時列拝 |
出席者 |
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斎主 |
息栖神社宮司 岡見円礼 |
◆ |
参列者 ご氏名 敬称略 |
◆ |
来賓 |
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志田晴美 |
水戸市教育委員会教育長 |
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小川邦明 |
水戸市教育委員会歴史文化財課課長 |
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関口慶久 |
水戸市教育委員会歴史文化財課課長補佐 |
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柿澤晟也 |
水戸市教育委員会歴史文化財課 |
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近藤喜祐 |
柏崎市教育委員会教育長 |
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野中清孝 |
灰爪集落町内会会長 |
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池田諭 |
灰爪集落町内会副会長 |
◆ |
水戸殉難者恩光碑保存会 |
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大森信明 |
会長 |
神奈川県 |
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市村眞一 |
顧問 |
水戸市 |
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市川達也 |
副会長 |
神奈川県 |
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成田行弘 |
幹事 |
水戸市 |
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門井孝廣 |
幹事 |
水戸市 |
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深谷益美 |
幹事 |
水戸市 |
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弓削徳衛 |
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水戸市 |
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高阿田啓壽 |
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水戸市 |
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薗部峯元 |
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水戸市 |
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益子不二夫 |
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水戸市 |
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大森信宏 |
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静岡県 |
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小野瀬きよみ |
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ひたちなか市 |
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結城千代子 |
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東京都 |
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結城明姫 |
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東京都 |
猛暑の中、岡見宮司を斎主とし、水戸市より教育長の志田様他4名、柏崎市教育長・近藤様、灰爪町内会会長・野中様、副会長・池田様に参加いただき、灰爪の丘の供養塔にて、4年ぶりに慰霊祭を行いました。関係するすべての皆様に感謝申し上げます。
追悼文奉読の中で大森は、諸生党は一時賊軍とされたが名誉を回復していること、子孫である我々が藩士の意志を引き継いでいること、灰爪の丘の史跡の維持管理は灰爪町内会が引き継いでくださったこと、恩光碑保存会は灰爪にて戦跡をお守りいただいている方々としっかりと交流していることなど、を報告させていただきました。
灰爪の丘では、2018年の水戸藩幕末維新150年記念事業にて、劣化した説明板を修復し、藩士が埋葬されている塚の前にお地蔵さんを建立しましたが、前回訪問時にはできておらず、今回初めて拝見しました。お地蔵さんは、前回訪問時に地元の尾崎様より、塚の前に水戸の石でつくったお地蔵さんを置いて戦没者を供養したいとのお話があり、稲田の石屋さんに作ってもらったものです。今回お地蔵さんと初対面し、感無量でした。
11.二日目昼食・角さんの台所
慰霊祭の後は近くの食事処”角さんの台所”に移動し、灰爪町内会の野中様、池田様と昼食を兼ねた交流会を行いました。角さんの台所とは文字通り西山町の偉人”田中角栄”にちなんだ食事処で、田中角栄の好物の”のっぺ汁定食”が提供されます。のっぺ汁とはとろみを付けたけんちん汁のようなものでした。これはとても美味しいのですが、新潟米のおにぎりがまた格別でした。私たちは田中角栄の好物を楽しみながら灰爪町内会の皆様と交流して、今回の旅行の行事を終了。帰途に就いたのでした。
12.長岡原の刑場跡
角さんの台所にて結城さん親子とお別れし、バスは来た道とは別の、北陸自動車道〜北関東自動車道経由で水戸に帰りました。高崎を通過した頃、夕方だというのに外気は34℃を示していました。2日間通して猛暑日でしたが、一人の病人もなく旅行を終えることが出来、本当に良かったです。帰り道は渋滞もなく順調で、予定の19時より1時間早い、18時に帰ることができました。バスは高速を茨城町東インターで降り、6号国道の吉沢町の交差点を千波湖方面に曲がりました。そこはかつて、長岡原と呼ばれた所です。すると、旧水戸街道沿いの刑場跡に祭壇のようなものが見えてきました。花が供えられています。刑場跡は他に目印があるわけではなく、非常にわかりにくい場所なのですが、前を通ったことから参加者に紹介することができました。長岡原を通ったのは全くの偶然であり、今回の旅行が、市川三左衛門様を始め、ご先祖様たちに守られて、滞りなく行えたように思えたのでした。今度、長岡原にお参りに行きたいと思いました。
13.最後に
皆様のおかげをもちまして、無事に会津・新潟旅行を行うことができました。改めまして、すべての関係する皆様に感謝申し上げます。
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