寺門登一郎・彦太郎 (てらかど といちろう・ひこたろう) |
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<写真をクリックすると拡大します>(2020.5撮影) | ||
寺門登一郎・彦太郎 ・寺門登一郎は水戸藩額田村の与力。額田村の庄屋を務め、苗字帯刀を許される。安政2年(1856)額田村北郷の組頭になる。結城派の同心、安新五郎の娘を妻にするなど結城派との繋がりが強く、結城派が処分された際は、登一郎も牢に入れられた。その後天狗党の乱では、額田以北の農民兵を率いて(寺門勢)天狗党と戦い、助川城に立てこもる田中愿蔵隊を敗走させるなどの活躍をした。その功績により代々の名字帯刀を許され、与力に任ぜられる。しかし王政復古後は天狗党に追われ、明治元年会津方面へ脱出するが捉えられ、久慈川の河原で磔にされた。 ★登一郎辞世の歌が墓碑左側面に次の通り刻んである 最後辞世 君の為捨つる命はおしまねど多(たた)思ふらん国能(の)行末 ・寺門彦太郎は登一郎の子で安政二年の生まれ。明治元年(1868)13才の時水戸を脱出し、会津での戦いを生き延びる。その後逃走の旅に出、関谷村下関(現新潟県関川村)の名主、三在門に匿われる。明治28年(1895)医師免許を取り、初め東京、ついで新潟で開業する。大正5年(1916)、登一郎の墓碑を額田 鱗勝院(りんしょういん)に建立。大正6年没。 |
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死亡場所(登一郎) | 久慈川河原にて磔 | |
死亡年月日(登一郎) | 明治元年(1868)7月27日 | |
墓地(登一郎) | 鱗勝院(りんしょういん) 茨城県那珂市額田南郷558-2 | |
関連資料 | 「祖父(寺門彦太郎)について」寺門登志(新潟県胎内市) 『中城町公民館発行誌』平成 12年5月(知恩6号より)(PDF) | |
「後藤新平と祖父・寺門彦太郎」寺門登志(新潟県胎内市) 『奥山荘郷土研究会誌 第34号』(知恩6号より)(PDF) | ||
「彦太郎さま」寺門登志(新潟県胎内市)(PDF) |