市川三左衛門(弘美)
いちかわ さんざえもん (ひろとみ)
市川家墓所市川家墓三左衛門墓三左衛門墓裏
<写真をクリックすると拡大します>(2020.5撮影)
 
 墓地の一番北側に市川家の墓所はある。しかし、三左衛門単独の墓はない。墓所の一角に表「俱會一處(くえいっしょ)」と記された墓がある。裏には「市川三左衛門弘美 岸子 秀五郎弘彌 主計弘継 安三郎 大正六年六月合葬 弘勝建立」と列記。処刑後四十八年目に、三左衛門は妻や子どもたちと市川家の墓所に合葬されたわけだ。三左衛門の妻幾志(岸子)が百一歳の天寿をまっとうした翌年のこと。墓を建てた弘勝さんは、このとき七歳。自らの意思で建てられる年齢ではない。家族が弘勝さんの名で建てた。弘勝さんは三左衛門の外ひ孫に当たるが、戸籍上は幾志の養継子なり、市川家を継承した。「俱會一處」とは、仏教用語で「老少不定で相前後してこの世を去ったものが、弥陀の願力で共に西方浄土に往生して共に一処に会合すること」(『広辞苑』)。
 (市村眞一『市川勢の軌跡』茨城新聞社 2008年)より
 市川三左衛門
 市川三左衛門弘美は、弘化13年(1816)大寄合頭弘教の二男として生まれた。名は弘美、はじめ善次郎また主計と称した。天保14年(1843)兄弘業が早世したため、家禄500石の家督を継いだ。市川家は慶長14年(1609)から水戸藩に仕えた名家で、初代重時以来代だい三左衛門を名乗り、弘美は九代目に当たる。
 弘化4年(1847)徒士頭から寄合指引に進み、嘉永元年(1848)小姓頭をへて、安政5年(1858)までのおよそ十年間に、用人をはじめ新番頭・馬廻頭・書院番頭・大番頭・大寄合頭を勤めた。
 安政5年以後藩内の保守・改革両派の対立が激しさを増すと、保守・門閥派の指導者として、尊王攘夷を主張する藩政改革派と対立した。元治元年(1864)3月藤田小四郎ら尊攘派が筑波山で挙兵すると、弘美は朝比奈弥太郎・佐藤図書らと武装した弘道館の師範や学生500余名を率いて江戸へ入り、筑波勢に同調する一派の取り締まりに当たった。
 同年6月執政の山野辺義芸・岡田徳至らが罷免され、かわって執政となって藩の実権を握った弘美は、兵を率いて江戸を発ち、筑波勢討伐のため幕府軍とともに常野の各地に転戦した。その経過をたどると千住駅から結城に至り、高道祖原(下妻市)での戦いでは、藤田小四郎らを敗走させたが、その夜の下妻での合戦に敗れ間々田(栃木県小山市)をへ、杉戸(埼玉県北葛飾郡)で江戸から脱出した朝比奈らに出会い、7月23日水戸城に入った。以後両派の激しい戦闘が城下で行われ、事態の収拾のため水戸に来た藩主慶篤の名代松平頼徳らは、弘美らの市川勢によって入城を拒否され那珂湊に移った。ここに市川勢と筑波勢、そして松平頼徳らの勢力が、那珂湊を中心に複雑に対立することになった。大混乱に陥った水戸藩の抗争を収拾するため、幕府は若年寄田沼意尊を常野討伐軍総括に命じ、市川勢や棚倉・佐倉藩兵らと一緒に筑波勢などの鎮圧に当たらせた。
 戦局が弘美らに有利に進む中で、筑波勢に新たに加わった武田正生らは西上を決意し、10月末那珂湊を離れて大子村に入った。弘美らもまたこれを追って月居峠(大子町)に至った。しかし交戦を繰り返しながら西上を続けた筑波勢は、同年12月加賀藩に投降した。その後権力を握った弘美らは、天狗勢に対して厳罰を繰り返しながら、さまざまな施策を実施した。その主なものに、慶応元年(1865)に着手した『郷中改革』がある。この改革では農民をお農村在住者として、本来の姿に戻そうとする「農兵」の廃止と、農民の武術訓練の場として、筑波挙兵の拠点ともなった「郷校」の廃止などが行われた。
 慶応3年(1867)王政復古により尊攘派が権力を掌握すると、弘美らは翌慶応4年水戸を脱出して、新政府に批判的な姿勢を示していた会津に向かった。いっぽう水戸では京都の本圀寺警備の一隊も加わって、市川勢への追討が行われた。また同年5月には、弘美らを追って水戸から追討軍が会津に向け出発した。弘美らは会津から越後に進み、さらに隊の一部は寺泊から佐渡へ渡った。5月に出雲崎や西山村で新政府軍と交戦したが、各地で敗れふたたび会津へ撤退し、さらに水戸へ戻った。水戸では弘道館を占拠し、水戸城の兵士と激しい戦闘が行われた。この弘道館での戦いは、双方からの砲撃が繰り返されたため、館の施設は破壊し多くの犠牲者を出した。弘美の二人の息子弘継、安三郎もこの戦いで死亡した。
 戦闘に破れた弘美らは10月2日に水戸を脱出して長岡、紅葉、玉造を通り、霞ケ浦から舟で潮来に出て松岸村(千葉県銚子市)に上陸した。ここから北海道へ渡る計画であったといわれている。同月6日弘美らは水戸からの追討軍に敗れ(松山戦争)、深手を負った弘美は一人追手を逃れ、かねてより知り合いの高野村(匝瑳市)の剣士、大木佐内宅で傷の手当てを受けながらしばらく隠遁した。しかし村人の気づくところとなり、東京へ逃れることとなった。東京では久我三左衛門と名を変え、娘の嫁ぎ先の宝徳寺に潜伏したが、やがて明治2年(1869)2月26日夜、青山百人町の剣道師範・島上源兵衛宅にいるところを、水戸から来た神勢隊に捕えられた。激しい対立、抗争の果ての捕縛であった。 明治2年4月3日弘美は「叛逆無道、重々不届至極…生き晒らしの上、長岡原に於て逆磔に行う者成也」として処刑された。54歳であった。処刑の日の光景を当時の書物は「長岡原の刑場へ見物人山の如く詰めかけ、尺寸の地をも余さず…刑場へ斯く大勢出掛けしは前代未聞と人びとは語り合へり」と記している。辞世のうた「君ゆえにすつる命はおしまねと忠か不忠に成そかなしき」がある。墓は水戸市八幡町の祇園寺にあり、戒名は法源院宗弘道盛居士である。
(橋崎伸一)
「水戸の先達」水戸市教育委員会 平成12年3月より部分抜粋
  
死亡場所 長岡原刑場(茨城県水戸市吉沢町)
  死亡年月日 明治2年(1869)4月3日
墓地 祇園寺
関連サイト フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
    まいぷれ ~水戸市の地域情報サイト~
    水戸 城西(祇園寺) 市川三左衛門、朝比奈弥太郎墓 (史跡訪問の日々 2009.8.1)
    市川三左衛門 (栃木、福島の戊辰戦争史跡 2016.8.19)
  祇園寺と諸生党慰霊碑 (エノカマの旅の途中 2018.5.1)
    祇園寺 恩光碑・市川家・朝比奈家墓 (戊辰掃苔録)